結局、せっぱ詰まる運命だったのではないか?

 今日の授業は2コマ。どちらも古典である。テストを返し、解説をする。だが、いつもなら大勢の生徒が来て、採点についての疑問や私の採点違いなどを指摘するのだが、今日はどちらのクラスとも2、3人にとどまった。まあ、結果が良かったせいかな。試験を行う前の私の予想よりは、みな出来が良かったからね。
 その後で、いよいよ源氏物語「若菜」に入っていく。だが、最初の部分の場面設定をしっかりとらえることが大変難しい作業だ。何しろ、教科書に掲載されている教材の途中からスタートするものだから、女三の宮付きの女房たちのだらしない様子を確認させるのに手間を取る。扱うのは、猫が御簾を巻き上げてしまい、女三の宮の姿が露わになってしまって、それを柏木が垣間見るという場面である。このようなことが起こること自体が女三の宮の幼稚さを表すものであるのだが、そのあたりは本文を口語訳しただけでは理解することができないだろう。場面状況と当時の女性たちのあり方について周辺知識をどんどん導入していかなければ、この文章の理解は難しい。そこで、少々時間を取って最初の部分を口語訳させ、解説を加えていった。
 すると、女三の宮の幼稚さによって女房たちを掌握できていない状況を生徒に確認させたところ、何人かの生徒は前の時間に私が配布した『あさきゆめみし』のプリントを出して見ていた。素晴らしい対応である! そのように、持っている様々な手段を用いて文章を理解しようとする態度は大変によい。大いに生徒を誉めた。こうした対応ができることが、優れた読者なのだよね。
 さて、それ以外は別の校務に忙殺され、今日の論文執筆作業は持ち帰り仕事となった。先日も書いたように、私はある「論文」を今月末までに書こうとしている。今書いている論文は、その「論文」の一部になるものである。この「論文」について、夏休みから準備を始めようとして、様々な仕事やら講習やら、さらには怠惰心から、ほとんど準備を進めることができず、大いに自己嫌悪に陥っているところである。
 しかし、考えてみると、私が夏休みにしていたことの一つは、まさにこの「論文」の一部となる論文を書いていたことに思い当たった。この「論文」は、私が書いた、あるいは書くべき、6つの論文をまとめるものである。それに、それらを統合する文章も書かなければならない。だが、私の場合、まだ夏休み段階では、この6つの論文のうち、まだ3つしか書き上げていなかったことに今気づいた。そして、夏休みに1つ、今現在で1つ、論文を書いていたのだ。今日、その5番目の論文についてひとまず修正を終えた。最後の論文はこれから書くことになる。よって、夏休み段階では、まだ私は自分が書こうとしている「論文」の全体像を把握することは不可能だったわけだ。つまり、5つ目の論文を書き上げようとしている今でこそ、初めてこの「論文」を書く準備が整った、と言える。
 何だ、結局せっぱ詰まらないとこの「論文」は書けなかったんだね。私が時間がかかるのは当然だったのだ。逆に言えば、今こそこの「論文」を書く機は熟しつつある、ということである。どうやら私の執筆予定は遅れるべくして遅れていたのである。
 もちろん、これは計画が遅れている自分に対する言い訳である。(^^ゞ でも、そうでも思わなければ、この超ウルトラせっぱ詰まった状況において、精神を正常に保つことはできない。無理矢理にでも自分を鼓舞しつつ、さあ、月末を(とりあえず)目標に、頑張るぞ!