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修学院離宮と桂離宮の違いを映像で確認する

 今日も授業は3コマ。現代文が2つ、古典が1つである。
 現代文の1つは「日本の庭」2時間目である。そこで、文章の音読から始める。4人くらいのグループで音読をさせる。この文章は少し読むのが難しい漢字があるので、全員で読んで私がコントロールしても良かったのだが、とりあえずやってみた。結果、悪くはなかったが、クラス全員で読んでも良かったかもしれない。このクラスの場合、音読している最中から少し雰囲気がだれてしまった。
 その後、この文章で比較対照される「竜安寺石庭」「修学院離宮」「桂離宮」がどのような庭であるのかを、生徒が具体的なイメージを持てるように、ビデオ映像を電子黒板に映し出して観させた。本当は宮内庁がWebページに公開している映像が一番いいのだけれど、残念ながらそれはダウンロードできなかった。そこで仕方なく、YouTubeから映像を探し、3つの庭を紹介している映像をダウンロードして、それを見せた。それぞれ4分前後のものだ。こんな時、YouTubeは使えるね。そして、電子黒板の威力の発揮どころである。YouTubeにはそれぞれの庭を実際に訪れた人が撮った映像がたくさんあるし、私が選んだのはその中でもきちんと編集がされているものだ。しかも、4分前後の映像で、教室で立て続けに見せる映像としては理想的な長さである。生徒も興味深そうに見てくれた。
 これを観ただけでも、修学院離宮桂離宮との庭造りの差は歴然である。修学院離宮は周りが田園風景で、その中や山の麓の自然の中に人が入っていくような感覚である。だが、桂離宮は周りが見渡せない。そして参観順路に沿って次々に新しい風景が展開し、最後に古書院や月見台がやってくる。
 だが、その差は2つの庭を実際に訪れている、そして加藤周一の文章をある程度理解している私だからこそ理解できるのかもしれない。何しろこちらは「差が存在する」という目で映像を観ているのだからね。原子物理学者が霧箱に生じた素粒子の軌跡から、新たな素粒子の誕生を見ることができるのと同じだ。在ると思って見るから在る。人間の感覚はそんなものである。庭造りについて背景知識をほとんど持たない生徒がこの映像を見ても、あまり違いは分からないかもしれない。
 生徒に手を挙げさせて聞いたところによると、修学院離宮桂離宮を訪れた者は3クラス中1人だけだった。竜安寺の石庭ですら実際に見た者は3分の1に満たないくらいである。もちろん、加藤周一の「日本の庭」は論理的に組み上げた文章だから、実際に見ていなくてもそれらの庭の特徴は理解できる。でも、やはり実際に見ていないとイメージ化は難しいだろうな。「自分の持っている知識や他の情報と関連づける」という方略が働かせづらいかもしれない。まあ、それを補うためにわざわざYouTubeを渉猟して参考映像を見つけてきたのだけれどね。
 生徒に見せるべき映像は宮内庁のビデオが一番いいと思ったのだが、これはインターネットにつながっていればちゃんと見ることができるはずなのである。本校の電子黒板に使っているPCはインターネットに接続していない。これは絶対に制度設計上の致命的欠陥だと思うけれどなぁ。インターネットにつながっていないPCなど今やそこらに転がっているプロジェクタと同等である。しかも、本校の教室にはネットへのケーブル差し込み口がPCを置いた場所のすぐ近くにある。つなげようと思えば簡単につなげられるのだ。問題はネットを運用する組織において、電子黒板にインターネットを接続するという事態が想定されていないことだろうな。事務的・手続き的な問題で(あるいは技術的限界もあるかもしれないけれど)、教室での自由な発想による運用が妨げられている。困ったものだと思う。だから、一番いいのはPCではなくてiPadを使うことだと思うけれどね。まあ、iPadでもWiFiでネットにつなげられる環境が整わないと同じことだけれど。
 というわけで、音読と映像視聴で授業時間のほとんどを使い、読解方略を適切に用いて本文を読解するという作業には10分くらいしか時間を持てなかった。残念。

日本の文脈

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みんなの家。建築家一年生の初仕事

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 先日、北海道へ行った際に、この2冊を読み終えた。内田樹本の系統だが、どちらも面白く、楽しく読めた。内田樹の考え方には非常に共感を覚える。彼の考えそのものというよりも、その考えるアプローチの仕方が大いに参考になる。自分の頭で考えるとはこういうことなのだろうね。