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産みの苦しみと楽しみと

 今日は試験前最後の授業である。文系の現代文1クラスのみであった。「誕生日について」の最後の部分、「誕生日の喪失」の箇所を生徒に問いかけ、体験を呼び起こし、説明をする。
 クライマックスの一つは「まがいものの自己」かな。「まがいものの自己」とあるのだから、ではその反対の「真実の自己」とは何か、と問いかけた。生徒に時間を与え、隣同士で意見を交流させた。彼らにその結果を確認することはしなかったが、私が「すぐ上の『無垢な状態』ではないよ」と言うと、「おやっ」という顔をした者が多かったので、やはり勘違いしていたのかなと思う。ここの重要な点は、ひとたび他者との関係の中に自分の存在があるのだと気づいてしまった子どもは、もはやそれ以前の自分だけの世界の中で生きていた状態には戻れない、ということだ。子どもから大人への変化の第一歩、それは「不可逆」反応である。決して戻ることはできない。だからこそ、誕生日の喪失は「残酷な秘儀」なのだ。二度と戻ることのできない変化、そしてその大人たちの思惑に気づいてしまった子どもは、誕生日を素直に喜べなくなるだけでなく、大人たちがうまく誕生日を演出するよう、大人たちに配慮する者となる。それが「まがいものの自己」の意味だ。そうした「まがいものの自己」を作らなければならなくなることが「残酷」なのである。この辺りの展開はこの随筆後半部の白眉だな。そこに生徒が気づいてくれれば、この文章を読んだ意味があるというものだ。
 明日の定期考査に向け、空き時間は打ち合わせが目白押しである。その合間を縫って、今日は大学に行き、論文を提出してきた。昨日ほぼ仕上げたものに、最後に若干の語句の修正を行った第3稿を提出した。実はこの稿にも重大な欠陥があったことに、その時に指摘されたのだが、まあそれは今後の修正でカバーすることにしよう。ともあれ、締切前日に提出し終えて、ひとまずはほっとした。取りかかってから1ヶ月あまり。本格的に執筆したのは10日間。いやはや、きつい時間だった。
 そして今、明後日からの北海道滝川市での働きの準備をしている。こちらも産みの苦しみにさいなまれている。1時間の話を3回することになっている。私の経験上、1時間話をするには核となるテーマが3つは必要である。それらを用意し、整え、配置し、それぞれの話のテーマを明確にする。この作業が夜中まで続く。毎回のこととはいえ、苦しくも楽しい作業である。