授業の合間に論文執筆

 今日の授業は2コマ。現代文が1つと古典が1つである。その合間を縫って、もちろん校務も行ったが、論文を執筆する。一端書き始めると火がついて、論文を書くのがおもしろくなってくる。自分が今追いかけていることがどのように自分の主張につながっていくのか、あるいはどのようにつなげていくべきか、考え、調べ、書いていくうちに、それが次第に具現化してくる。その過程がおもしろい。やれやれ。こんなにおもしろいのなら、もっと早くから始めれば良かった。(^^ゞ
 さて、現代文の授業は文系クラスである。堀江敏幸の「誕生日について」というエッセイを読み解いている。エッセイだけあって、特異な比喩表現に満ちている文章なのだが、その比喩の説明がしばしば本文にない。そうなると「関連づける」方略を用いて、自分の経験から比喩表現を読み解く必要がある。生徒に、小学生の時はどうだった〜などと呼びかけ、彼らの記憶を呼び起こしながら読み進んでいる。このクラスは最近とても乗りが良く、私の呼びかけにすぐに反応して隣同士で話し合いを始めてくれる。私のスタイルが良く浸透しているクラスである。それを楽しんでいるような雰囲気もある。和やかなうちに、それでも結構早めに授業は進んでいった。
 古典は理数科クラスである。韓愈の「師説」を読み解いていく。生徒に訳させながら、電子黒板に本文の文章を映し出し、その文章構造を確認させていく。対比的な構造になる部分が多くあり、逆にその対比構造に気づきさえすれば一見難解そうな表現も比較的分かりやすく訳すことができる。さすがは韓愈である。対比構造を巧みに使い、自分自身の主張と、道を学ぶことにおいて師につくことを恥じる知識階級の愚かさを断じていく。爽快である。所々に指示語があるが、その指示する内容も生徒はたちどころに理解できる。それだけ文章が理解しやすいからである。「達意の文章」とはこういうものか。読んで理解でき、深く考えてより理解できる。精読すると筆者の創意工夫が至る所にちりばめられていることに気づく。本当に素晴らしい文章だ。そうしたところも生徒には味わって欲しいなぁ。そして、そのようなことにもちゃんと気づかせられる授業にしなくては。
 読書体験文コンクールに応募させるべき作品の選出も終わった。論文書きに頭がくらくらしているかと思ったが、やるべきことも何とかやり終えることができた。さあ、後数日! 楽しもう。