溢れる発想をなだめすかすのが執筆だ

 今日は授業変更のために授業がない。無論、会議が2つあり、しかも1つは私が非常に関わるものなので休むことはできない。そこで、これ幸いと、昨日ほとんどできなかった論文の執筆をする。やっとまとまった時間を論文執筆に注ぐことができた。しかし、これからはまとまった時間など取れなくても執筆を進めなければならない。今日は18ページが限界のところ、7ページまで書き進んだ。約3分の1。でも、そこまでに5時間以上をかけている。明日以降もせめて2、3時間は時間を取って書き進めなければ。締切は来週だが、できれば今週中に書き上げたいのだ。
 昨日はそれでも論文の構成を大幅に見直し、全7章からなる構成を考えていた。しかし、いざ書き始めてみると、第2章で展開しようと思っていたことはやはり第1章の「問題の所在」を説明する上で必要なことが分かったので、第2章の内容すべてを第1章に組み入れて書いた。そのため、全6章の論文となった。
 このように、書き始めてみると、「やはりこうした方が良いな」と思うことが良くある。それが執筆することの意味である。執筆とは、たとえ事前に十分な構成を考えていたとしても、書き進めていく文脈によって流れを変更していかなければならなくなるのだ。このあたりは認知心理学的に興味深いなぁ。そして、どのようにメタ認知モニタリングが働き、メタ認知的コントロールがなされていくのだろう。そして、どのように方略が変更されていくのだろう。まさに、自分が今回の論文に盛り込もうとしている現象そのものが自分自身に起こっているのが分かる。当然、生徒に作文を書かせる際にも同様のことが起こるだろう。そして、それにうまく対処できるよう指導して行くにはどんな方法があるのだろう。文章表現における方略指導もおもしろそうなテーマなのだ。
 また、第2章の「メタ認知」についての定義を書いているうちに、第4章の論文の核心部分で書くべきアイデアを得てしまった。これを今書いている第2章でついつい書きたくなってしまう。だが、それはやはり第4章まで取っておくべきだろう。第2章はメタ認知の定義と、そこから導きうる読解方略の指導法について書くべき部分である。それ以外のことは、どんなに良いアイデアでも、「ノイズ」である。
 執筆とは、書いている最中にあふれ出してくる発想を、なだめすかし、整理しながら、文章構成の枠組みの中に落ち着かせる行為である。書き進めたい気持ちと、それに待ったをかける気持ちとがせめぎ合う、自分の中のバトルである。興味深く、しかし、時間のない中で書く人間にとっては困難な作業である。