芋づる式の文献探索

 現在、ある論文を書こうとしている。基本的な構想はできあがっているはずなのだが、なかなか書き進められない。そこで、今回の論文の大元となる、ある参考文献をもう一度読み直そうと考えた。空っぽのバケツから水を汲もうと思っても、それは無理な相談だ。まずはバケツに水を入れなければ。というわけで大元の文献を読み始めた。これに対して批判的に検討しようと思っているのだ。
 そうすると、一度読んだはずなのに、いくつかアイデアが湧いてくるし、この文献のどこを梃子にして自分の論文を書き進めれば良いかの見当もついてくる。いやぁ、想像以上の成果だった。特に、引用文献を調べていく内に、それが、自分で入手していながらまだ読んでいない文献で、しかもそれこそが今回の自分の論文にとってこれまた大元になる分野を扱っているものであることが分かった。いやはや、文献探索はしっかりするべきものである。早速、CINIIでその文献を検索し、pdfファイルを入手する。今は、こういうことができるから、研究には便利である。そして、その文献を読み進めていくと、またしても参考文献が自分の関心に引っかかることが分かる。またしてもCINIIで調べて、その文献を入手する。本当に、そんな繰り返しだった。
 まあ、後で入手した文献は、自分の論にとって参考にはなるものの、根本を左右するものではないので、あまりがっちりと読み込まなくて良いだろう。ただ、しっかり読み込むべき文献の2つ目が見つかったことは大きな成果である。
 とはいえ、論文の提出締切までさほど時間がないのだけれどね。そんな中で、まだこんな文献探索をやっていて、非常に問題ではあるのだが。

授業は2コマ

 今日は古典が2コマであった。文系と理数科。どちらも韓愈の「師説」を読み進める。達意の文章であるだけに、基本的には非常に分かりやすく、よって訳しやすい。多少の難しい言い回しは教科書の注として示されているしね。今日は2つのクラスとも音読練習をがっちりさせたが、それでも全5段洛中、第1段落は楽々終わった。文系クラスは昨日、第1段落をある程度終えていたので、今日は第3段落の手前まで進んだ。良い調子だ。
 指導書には「論理的な文章だ」と解説されているけれど、だが、決して上記のような「論文」ではない。現在一般的な論文の構成を取ってはいない。5つの段落は、師の性格を提示し、師道のすたれた現状を指摘し、人々の師に関する矛盾を告発し、あるべき師の姿を提示して、執筆事情を述べる。段落内の論理展開は確かに論理的なのだが、段落ごとの論理の結びつきは必ずしも「論理的」ではない。そのあたりが「説」という所以か。
 現在の「論文」の構成は欧米由来のものなのだろうね。これもまた長い歴史の中で、いかに間違いなく自分の主張を述べるか、ということを模索した結果なのだろう。我々が現代において行っているものの多くに、これまで生きてきた人々の探究の成果が生かされているはずだ。そう思うと、ちょっと感動する。