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原文のプリントを配った方がよいのかな

 今日は現代文が1コマ、古典が1コマの授業があった。現代文は文系クラス。ようやく今日で、夏休みを跨いで読んでいた「画家の領分」という評論を読み終えた。最後は少々強引に終えたけれどね。
 でも、この文章は「画家」というものがどういうことをしているのか、芸術作品とはどういうものなのか、改めて考えさせてくれる文章だった。たまたま今日の文系クラスは昨年顧問をしていた美術部の生徒たちが3人ほどいるクラスである。その彼らたちを意識し、画家とは何をする人たちなのかを一緒に読み取っていくのは価値があることだと思っていた。おそらく彼らも意識したことがなかっただろう「描く」という行為を、しかし言われてみて気づくものがきっとあったはずである。
 画家は、自らの描こうとする理念だけで画面を構成するのではない。他に、絵の具の状態や、筆の質や、カンバスの張り具合や、今日の天候や自身の体調など、描いている最中に様々なことを感じ取り、時に描き始めた時には思いもよらなかった線や色合いが描けたりしてしまうはずである。それら「諸要素との対応関係」が積み重なり、そこに「より良い画面を構成しよう」という画家自身の意欲(=画家の生きざま)が加わって、絵画というものができあがる。そのため、絵画とは世界自体の表現されたもの、となるのだ。そのような論の運び方は、時に難解な語句の感覚的な連鎖に閉口させられるものの、画家自身の実感に裏付けられた非常に正直なものだろう。
 私もその内容を説明するために、実際の芸術作品を紹介することをいくつか行った。まずは著者である李禹煥氏の作品を紹介した。さらに、絵画と写真が明らかに違うことを示して、絵画が「諸要素の対応関係」により描かれるものであることを説明するために、フェルメールの『デルフト眺望』と、その同じ風景の写真とを示して比較させた。そして今日は、何も描かれないカンバス一つでも絵画作品になりうる、という記述の説明として、マルセル・デュシャンの『泉』の作品写真を示した。こういう時には電子黒板が活躍する。上記の作品たちの写真ファイルをインターネットを通して入手しておき、本文の原文画面と切り替えて表示させるのだ。関連する作品を実際に示すことで理解が進むだろう、と思う。こうした場合、作品を手軽に入手し、教室で大きく表示できるのは電子黒板の良いところである。
 今回の評論では、夏休み以降は毎時間電子黒板を使った。本文を表示し、そこに書き込みをするという使い方である。話題にすべきキーワードを丸で囲んだり、それと関連する箇所や説明している箇所に傍線を引き、それらを矢印でつないだりした。こうすることで、文章がどのように構成されているのか、ある部分の説明箇所はどこにつながるのか、また、ある箇所を説明するのにどこを探したらよいのか、などを視覚的に示すことができる。おかげで、論理展開の単純な箇所はこうしたキーワードを丸で囲み、その説明箇所に傍線を引き、それらを線でつなぐという作業を示すだけで説明を済ませたところもある。
 ただ、これをすると生徒の教科書は線やら丸やらでいっぱいになる。また、教科書のpdfファイルを使っていないので、教科書の行と表示した原文の行とが一致せず、私が示している箇所がどこにあるのかを一瞬で知ることができない。
 今日の授業が終わった後で、生徒の教科書が書き込みがいっぱいになったのを見て、「画面と同じものをプリントして持ってくればよいかなぁ」と言ったら、その生徒は「そう、そうですね」と大きくうなずいていた。どうやら需要はあるらしい。私は教科書はどんどん書き込みで汚すべきだと考える者だが、本文に書き込みをする私の授業スタイルの場合、映し出す原文と同じ形の本文プリントは必要かもしれない。次の随筆では試してみよう。
 古典は「無名抄」をほぼ終えた。予定どおりである。もう少し説明が必要だけれどね。