源氏物語を終えて……

 今日の授業は古典講読と理数科の古典であった。古典講読では源氏物語の薄雲巻を読んでいる。面白いもので、講読の教科書に載っている薄雲巻の文章は、まさに薄雲巻の冒頭部分である。明石の君が光源氏から姫君を引き取りたい旨を伝えられ、苦悩する場面である。そして、古典の教科書にも薄雲巻がある。こちらはまさに講読の教科書の次の場面から始まる。明石の君が姫君を引き渡す決心をし、乳母と和歌を詠み交わす場面から始まり、姫君を牛車に乗せ、自らはその場に残るという母子の別れの場面である。2つをつなげるとちょうど良いのにね。そして、どちらかというと古典の教科書の箇所の方が、和歌もあるし、動きもあるしで、わかりやすい。ただ、ちょっとわかりやすすぎるかもしれない。
 今日はその薄雲巻をすべて終えた。だいぶ時間がかかった。それもそのはずで、教科書にして4ページの分量で、しかも背景のストーリーの知識をふんだんに持っていないとなかなか理解しづらい場面であった。その背景説明を毎時間ある程度していかなければならない。ところが古典講読は1週間に時には1コマしかない授業なので、毎回内容を思い出させなければならないのだ。それが時間がかかる主原因である。
 しかし、今日でついに薄雲巻を終えた。その後で、続きの場面である古典の教科書を読ませれば良かったが、自分でプリントを作り、姫君の裳着の儀式が始まる直前の場面まで生徒に読ませた。
 古典講読はもうほとんど源氏物語を読んでいればよいと思う。しかし、今度は古典の方で源氏物語を読む順番である。そこで、やむなく講読では源氏物語は終わりだ。今年の古典講読はあまりぱっとしなかったなぁ。夕顔巻と薄雲巻を読んだだけだった。もっと他の巻も読みたかったが、何しろ時数の足りなさで断念せざるを得ない。まあ、次からは大鏡を読むからね。こちらも人間模様が複雑で、楽しみである。

人間に触れるインターフェイスは一生モノだそうな

 私はコンピュータのキーボードについては、ちょっとうるさい。そのキーボードの中で、「Happy Hacking Keyboard」というものがある。なかなか良さそうなのだが、何しろ高価である。しかし、そのキーボードの製品紹介Webページに東京大学名誉教授の和田英一氏の言葉が載っている。なかなか言い得て妙だな、と思い、引用する。

 アメリカの西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬はそこに残していくが、どんなに砂漠を歩こうとも、鞍は自分で担いで往く。
 馬は消耗品であり、鞍は自分の体に馴染んだインターフェースだからだ。いまやパソコンは消耗品であり、キーボードは大切な、生涯使えるインターフェースであることを忘れてはいけない。

 メーカーの販促のための言葉かもしれないとはいえ、真実をついている。本当にキーボードには不満が多い。私の理想とするキーボードは、かつてMac OS 9マシンであったPowerMac6100を使っていた時にわざわざ買い求めたキーボードである。カチャカチャ音がするものだったが、打鍵時のクリック感といい、押し下げの距離といい、打鍵の確実さといい、非常にしっくり来るものだった。今でも持ってはいるけれど、何しろ時はUSB時代である。ADPポートなどは使えやしない。そこでやむなく、別売りのApple Keyboardを使っている。これはこれで良いのだけれど、やはりベストではない。
 上記のキーボードは魅力的だなぁ。使ってみようか。