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電子黒板を使った授業 その2

 今日は古典講読と古典の授業で電子黒板を使ってみた。古典の授業では本文を大きく表示しながら授業をするというのは効果的であると考えている。すぐに単語に切り分けて口語訳をする箇所を指示できる。
 そこでやってみたのだが、現在の環境ではあまり使えない、と感じた。本校ではこの電子黒板を導入するにあたり、各教科で使用している教科書をpdfファイル化し、そのデータを各個人に配布している。前回と今日、私はその教科書のpdfファイルを表示させ、教科書がスクリーンに映し出されるようにして授業をしているのだ。
 しかし、スクリーンは基本的に横長であるのに対して、国語の教科書の1ページは基本的に縦長である。しかも基本的にどのページにも下注がある。よって、pdfファイルをスクリーンに表示した場合、本文そのものは非常に小さくしか表示されないのだ。そこで拡大機能を使って本文の部分だけを拡大して表示してみた。そうすると文字はドットが荒くなって表示されるし、そのようにして拡大表示しても、教室の一番後ろの席から見ると、そんなに大きくはない。これでは生徒には見えづらく、かえって分かりづらくなるだろうなぁ。
 電子黒板自体の問題ではないけれど、pdfファイルを使っている限り、あまり使えないことがよく分かった。これは、電子黒板での表示用に教科書本文のファイルを作り、それを使う方が良さそうだ。そしてフォントも重要だ。pdfファイルによる教科書本文は当然「教科書体」のフォントか明朝体である。これは表示用には不適切だ。ゴシック体でなければならないだろう。
 そう考えると、初等教育などで喧伝されている「デジタル教科書」などはどうなのかなぁ。どれだけ大きく表示されるのだろう。そして、どれだけ見やすいのだろうか。教科書そのものを表示する、という使い方ではないのだろうか。
 そんな中、この本を読み終えた。

街場の文体論

街場の文体論

 いやぁ、すごい本だ。もう「目から鱗」の落ちまくりである。筆者の神戸女学院大学での最終講義が基になっており、全部で14講あるが、もうどれもどれも「なるほど!」と思うことや蒙昧を拓かれることの連続である。筆者の啓蒙活動には本当に頭の下がる思いだ。それに対して正当な評価がなされないという正統的学問世界の視野の狭さに驚愕する。
 内田樹の文学や文章に対しての考えがまとまって提出されている本だ。これらの考えは非常に根源的で、また視野に富むものばかりである。それがきわめて分かりやすい語り口、文体で書かれている。
 うーむ、読んでいて楽しいばかりであった。読み終わるのが惜しいくらい。それでいて、もっとどんどん先へ読み進めたいと思わせられる。この手の本としては珍しい思いを抱かせられた。素晴らしい。