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独立した人格が生み出される不思議

 日曜日の今日は集会に行く。毎週のことではあるが、それでもこの日曜日の集会、特に礼拝に出席することは私にとって最も大切なことだ。毎週、万難を排してこれに臨む。
 16:00ころ帰宅し、この後は次男の夏休みの宿題である自由研究に付き合う。彼は卵を酢の中に入れ、殻を溶かして「ぷよぷよたまご」を作るという実験を行い、それを模造紙にまとめようとしている。そのまとめの部分を私が手伝ってやる。とはいえ、模造紙へのまとめ方を私が指示したり、彼が書いていた実験メモの文言を見ながら、どんな内容を書くべきか指示したりして、ほとんどは私が教えてやっているのだけれどね。残念ながら次男はあまり要領が良くないので、あぁだこうだと時に大きな声を出しながら、途中休憩も入れて、20:30までには何とか下書きが終わった。
 こうしたことを毎年繰り返すにつれて、当たり前のことなのだが、自分の子どもとは言え全くの別人格なのだなぁ、と感慨を新たにする。実は、最初の子どもが産まれた時、2歳くらいまではあまりに私自身の似通ったところがあったので、私の同一の人間がもう一人この世に存在することになったのではないかと思ったくらいだった。たとえば、私は10ヶ月くらいで歩いたそうだけれど、長男もそうだった。彼もはいはいをほとんど経ずに、立ち上がったかと思ったら歩き出していた。他にも私と似通ったことが多くあったので、私と同じ人間がもう一人存在している、という感じを持ったものだった。だが、もちろんそんなことはなく、その後はどんどん私との違いがはっきりしてきて、これは別人格の人間なのだと思い直したわけだ。
 その後さらに3人の子どもが産まれて、私には4人の子どもがいる。もちろん、一人一人はみんな違う。一人として同じ人格の者はいない。考えてみれば不思議なことである。源は同じく我々夫婦二人である。しかし、そこから出てきた4人の子どもたちはみな別の人格を持つ全く独立した人間として存在している。一人として同じ者はいない。しかもそれは親とも似通っていない。似たところを少しずつは持っているが、総体としてみた時には別人格である。このように、親から独立した人格を持つ人間が生み出されることは、考えてみればずいぶん不思議なことである。
 古来より多くの親たちが同じような思いを抱いてきたことだろうなぁ。子どもという者の存在が親に教えてくれることは、あまりに、あまりに、多い。