評論文の論旨をまとめさせる

 今日の授業は古典講読1コマ、古典1コマ、現代文1コマの3種類であった。全ての授業で内容が違うという、目まぐるしい1日である。古典講読は源氏物語の薄雲巻、古典は和泉式部日記である。さすがに内容は違うが文法的事項は共通部分が多いので、時々古典講読で教えた記憶と古典で教えた記憶とがごちゃごちゃになってやりにくい。どちらも面白いのだけれどね。
 さて、現代文は評論文「画家の領分」である。授業ではこの文章構造分析を行っている。文章を前文・本文・後文の3段落に分け、それぞれの内容を文章からの抜き出しを中心にまとめさせる。今日のクラスは前回に前文のまとめは終わっていたので、その前文を再度確認した。そして、その内容と同じ内容を含む文が後文の段落にあるのでそれを探すように、と指示した。
 この、前文と後文との内容が一対一で対応するというのは論理的な文章の特徴である。一般的に、前文は問題提起であり、後文はその問題に対する筆者の解答である。だが、日本語の評論文の場合、多くは前文に筆者の主張が提示されている。つまり、主張を提示することで自らの問題意識を表明しているわけである。そして後文には、本文での議論を経ての、筆者の主張の「再」提示が行われる。したがって、前文にも後文にも筆者の主張が(多少表現は変わるとはいえ)述べられることになる。それならば、前文と後文の内容は、表現は違っていたり、後文の方がより議論を経た表現が加えられるとはいえ、同じ主張が繰り返されるはずである。
 実際は、多くの「評論文」と題される文章がこの当然の形式を踏襲していない。前文での筆者の主張の提示が弱いのだ。あるいは後文でのまとめが最初の主張を繰り返さない。これは、本来の意味での「論理的な」文章ではない、と思う。その意味で、日本の高校教科書に収載されている「評論文」と題される文章は本来の意味では「論理的な」文章ではない。これは、教科書に収載される段階で元の文章の形を変形させられる、という問題が関与している場合がある。元の文章が長い場合、教科書に収載する際には本来必要な結末部分をカットしたり、途中を大きくカットしたりする場合がある。そうされると、文章構造を分析することがもはや不可能になる。だが、定番教材といわれるものにさえもそういう「改悪」が多く見られる。丸山真男の「『である』ことと『する』こと」などはその際たるものである。
 幸い、今回扱っている「画家の領分」という文章はそうした改悪が行われていない。元の文章の分量が短いものだったのか、あるいは3年生で使う教科書なので、教科書的にはこれくらいの「長さ」は許容されたのか、ともあれ、前文・本文・後文の3段落はちゃんと保たれている。よって私はしきりにこの文章は「良い」文章だと、生徒に言っている。
 概して、日本の高校現代文教科書は収載されている文章が「短すぎる」。高校の教科書なのだから、今の2倍か3倍の厚さがあって良い。そのためには、教師が「教科書に載っている文章は、最初から最後まで全部説明しなければならない」という強迫観念を捨てる必要がある。説明などする必要はない。我々現代文の教師は哲学者でも、思想家でも、芸術家でも、文学者でも、ない。個々の文章の解説をするのが教師の仕事ではないはずだ。我々現代文の教師の仕事とは、「生徒が文章を理解し、自らの考えを相手に伝わるように話し、書くことができるようにする」ことである。そのために「教科書収載の文章を全て説明する」必要など、ない。
 さて、授業では前文での内容を確認させて、後文で同一内容を含む文を抜き出させた。生徒はちゃんと2文を抜き出してくれた。そこで、それをつなげて後文の内容とした。次に、本文の内容を確認させる。これは、前文でも後文でも「画家は」という主語で始まっているので、この文章は「画家のあり方」について述べたものであることを確認させ、本文からも「画家は」で始まる部分を抜き出し、まとめるよう指示した。生徒に探させたあと、隣同士で確認させた。本文の前半は簡単に探せるが、後半はいくつか箇所があるので、それを選択するのに戸惑っていたようだ。それも「つまり」「しかも」という接続詞に注目すれば2文であることが分かる。
 このようにして文章構造図を完成させたあとで、「要旨」をまとめさせた。要旨とは要するに「筆者の主張」のことである。そこで、前文と後文の内容をまとめればよいことを示し、それに加えて筆者が後文の後半で「画家が〜であるためには」と書いてあることから、画家のあるべき姿を最後に付け加えるよう指示し、全体で200字以内の2文で要旨をまとめるよう指示して、書かせた。10分間の時間を与えたが、何しろまとめる前文と後文の内容は黒板に板書してあるし、その2つを重複部分を整理してまとめたあとで後文の後半を加えればよいので、10分間で充分だったようだ。大半の生徒が書き終えた。隣同士で交換させて内容を確認させた。その後、私が作成した例を説明しながら示した。
 今回の要旨のまとめは非常に明確な形で生徒に説明し、まとめさせることができたように思う。これも文章が「論理的」になっているからである。教科書にはこういう「評論文」をたくさん載せて欲しいなぁ。