前期中間考査3日目

 今日は国語関係の考査はなし。2科目の監督を行った。
 午後は特別支援教育の教員研修会が行われた。特別支援教育については、インクルージョン教育のとらえ方に基づいて、全ての生徒に対して個々の対応が必要なのだという考えに立つような内容であったほうが良いと思う。インクルージョン教育のとらえ方はなかなか刺激的である。特別支援教育の立場から、一般の生徒に対する我々の教育活動の見直しができる。どうせ研修会をやるなら、そうした方面での研修をして欲しいな。
 さて、先月以来、各教科書会社の売り込みが激しくなっている。来年度使用する教科書の選定の時期にさしかかっているからだ。特に来年度の1年生から新教育課程が始まることになり、新しい国語総合の教科書を売り込もうと各教科書会社の編集の方の訪問がひっきりなしに続いていた。
 いくつかの社の国語総合の編集方針を伺うのだが、それらの方々が口にする売り文句はほとんどが共通している。それは「我が社の国語総合の教科書は評論教材を充実させた」ということだ。新教科書の存在意義はいかに充実した評論教材を揃えたか、いかにその配列に工夫したか、という1点に絞られていた。しかも面白いことに、福岡伸一氏の文章を国語総合の段階で入れたかどうかがセールスポイントになっている。なかなか面白い現象である。福岡伸一の文章は私も大好きなもので、正直私は氏のファンである。その著書のほとんどを読んでいる。しかしそれが、国語総合の教科書の質を示すバロメーターになるとは思わなかったなぁ。
 つまり、各社の工夫のしどころは、どんな評論教材を入れたかにかかっている。評論教材のみが各教科書の価値判断の基準であり、他はほとんど問題にされないのだ。それは問題ではないか。
 古典分野では、扱うべき教材はほぼ決まっており、漢文分野で若干の工夫が見込まれるだけだ、という。個人的にはその見解にも懐疑的だ。高校1年生段階で扱うべき古典作品の中には、もっともっと相応しいものがたくさんあると思う。小説においてもしかり。どの社の教科書も判で押したように「羅生門」が入っている。あとは志賀直哉太宰治あたり。漱石の「夢十夜」が入るかどうかである。何故こんなにも各社同じなのだろう。
 いやぁ、答えは決まっているのですけれどね。それは「他の面白そうな教材を採用しても、現場の教員が慣れていない教材を扱うのを嫌がる」からである。つまり、現場の教員こそが新しい教材を欲していない。自分が今までに教えたことのある「定番教材」のみを教えたいのである。だから、教科書会社はそれを外すことができない。そして、唯一各社の工夫を凝らすことのできるのが「評論分野」なのである。評論教材のみは、毎年変わっても教員は文句を言わない。むしろ、最近の社会のトレンドを踏まえた文章の方が求められる。だから、評論教材のみは毎年、そして教科書会社によって、様々な文章が採用されているのである。
 うーん、あまりに明白なことだから文句をはさむこともできないのだけれど、でも、これって歪んでいるよね。そもそも、今回の学習指導要領改訂の目玉である、PISA読解力への対応とか、図書館を活用した学習とかに対するセールスポイントは、ついぞどの教科書会社の担当の方から聞くことはなかった。だから、私はその都度担当の方に質問した。PISA読解力への対応はどうなっていますか? 図書館活用はどう対応されますか? それぞれの会社の方は一応説明してくれる。しかし、それらの教科書における対応は巻頭の資料か巻末にまとめられた学習活動例(同僚の言によると「おまけの方」)に示されているだけだ。唯一、ある社の教科書は、各教材の最後に、巻末の学習活動例との対応をページ番号を示すことによって明記しているだけであった。
 つまりは、教科書会社の作成する教科書は現場の教員の方向のみを見ている。学習指導要領が目指している、生徒のあるべき姿の方向は見ていない。教科書検査官も、学習指導要領が示している項目が教科書に掲載されてさえいればOKを出す。その教科書によって育成される生徒の姿をイメージしているとは思えない。どうやら、少なくとも日本の高校における国語総合の教科書(私が見せられたのは現代文編・古典編の分冊版のみ)は、生徒を学習指導要領の示すあるべき姿へと導こうという気はなさそうだ。私はそれをひどく残念に思う。