古典における読解方略の指導とは

 今日の授業は3コマである。古典講読が1つ、古典が2つ。今日は古典デーだ。古典講読は『史記』より「張良」の文章を、古典は同じく『史記』より「完璧帰趙」の文章を読んでいる。一方では張良について、もう一方では藺相如についての話だ。考えてみると約100年くらいの時間差しかない。無論100年は長い時間だが、中国史を考えるとほとんど同時期である。2つを教えているこちらの頭の中が混乱するわけだ。まして生徒は2つをきちんと区別できているだろうか。
 上記のことが不安になったので、古典講読では2つの時間の差と内容の差とを最初に確認した。その上で張良について読み進めていく。順調である。古典の方も、1時間程度の進度差はあるが、順調に進めていった。
 ただ、試験が近いせいでどちらも口語訳を中心とした授業になっている。だが、たとえ古典といえども、読解方略を伸長させるよう指導するのが当然であろう。この場合、古典ではどのようにして読解方略を伸長させることができるのだろうか。古典では、まず原文を正確に現代語に訳すという作業が不可欠になる。実際に訳す、訳さないは問題ではない。本文の内容について質問したりイメージを描いたり結びつけたり光を当てたりするためには、まずは本文を現代語で理解できていることが必要ではある。だが、現実の授業では、この現代語訳の作業に時間の大半が取られてしまい、内容について方略を働かせる作業を行う余裕がほとんどない。どうしたらよいだろうか。
 単純な方法として、現代語訳を配ってしまう、というのがある。もちろんOKである。ただ、現実の定期考査や大学入試を考えると、現代語訳を自力で行う力を養わないと、それらの要請には全く太刀打ちできない。現代語訳する力を付けつつ、なおかつ方略の指導を行うにはどうしたらよいものだろうか。
 その点、例えば英語圏での授業はどのようにしているのだろう。英語圏ではシェークスピアなどの古典を題材として授業を行っている。私はよく分からないのだが、シェークスピアあたりの英語は現代口語英語とは違う「古英語」で書かれているのだろうか。つまり、日本人の我々が古典の文章を読むような感覚で、英米人はシェークスピアを読むのだろうか。あるいは、日本の古典よりは現代口語との差がそれほどないのだろうか。
 私の乏しい知識では、英語圏の授業ではシェークスピアを読んだり、それを劇として表現したりしている。だからシェークスピアを用いて方略指導を行っているのだろう。そこに、古英語を読む際の苦労はどれだけあるのだろうか。
 あるいは、日本人が古典作品に対して感じる言語的落差は、欧米人の場合は「ラテン語」あたりへの感覚に等しいのだろうか。欧米人は何しろ外国語に対して感じる落差があまりないと聞く。英語を母語とする者でも、ドイツ語やフランス語、イタリア語など同じ欧米語に習熟する際の苦労は日本人のそれと比べものにならないほど容易である。何しろ語順や文法がほとんど同じだからね。新たな語彙さえ覚えれば良く、それも外来語として結構英語に入ってきているものである。
 その点、日本人が自国の古典に対して持つ言語的感覚の落差ははるかに激しいものである。ほとんど第2外国語だ。変わらないのは語順くらいで、後は理解するのに多大な努力を必要とする。これも、文語文を読み慣れていないからだろうか。文語文を読み慣れていれば、古典文法はほとんど抵抗なく理解できるはずだ。小学校から文語文の文章を読み慣れる必要があるのではないのかなぁ。