「舞姫」の授業:第2段落の読み取り

 今日は体育祭関連の最後の行事である連合LHRが行われた。その関係で60分授業である。たとえ5分短いだけとはいえ、思うところまで進めなかった。後5分あればなぁ!
 現代文2クラスの授業を行った。1つは遅れている理数科であり、もう1つは文系のクラスである。理数科の方は文系で行ってきた第1段落の読み取りをほぼ同じように展開した。文系クラスでは第2段落の読み取りに入った。
 第2段落は豊太郎がドイツに留学し、その3年後に「まことの我」に覚醒する場面である。これを読み取るに当たって、最初に生徒に自分で質問・疑問を持つよう促した。3分間ほど時間を取り、本文をさっと確認して疑問の箇所に傍線を引くよう指示した。3分間じゃ足りないね。本来これは5分や10分時間をかけるべきだ。
 その後、私が疑問に思う箇所を指摘し、生徒に考えさせた。まず第1問。

1.豊太郎の言う「まことの我」と「我が本性」とは同じ内容のものか、違うものか?

 生徒たちにグループになって少し話し合いをさせた。だが、これはある事実によっておそらく明瞭に答えられる。「舞姫」には「ああ」という嘆きの言葉が12箇所出て来る。そのうち1つはエリスの、豊太郎への愛情の発露である。だが、残り11箇所は豊太郎のものであり、他の箇所から考えるにそれらはすべて留学を終えてセイゴンの港でこの回想録を書いている時点での豊太郎の嘆きである。そして、「我が本性」の方にはこの「ああ」が出て来る。したがって、「まことの我」と「我が本性」は違う内容のものであると考えられる。それに気付いている時点が異なるのである。
 以上のことを生徒に指摘し、その上で第2問を出した。

2.「まことの我」と「我が本性」とはそれぞれどのような内容のものか。

 まずは「まことの我」について考えさせる。それを説明しているのは「所動的・器械的の人物」である。では、この「所動的・器械的の人物」とは具体的にどのような内容のものなのか。それを考えるためには次の第3の質問について考えるべきである。

3.豊太郎が初めてベルリンの景物を見た時、「あだなる美観に心を動かされじ」と決意するのは何故か。

 この問いから、豊太郎が士族階級である太田家を再興することを期待され、また国家発展に有用な人物となることを期待されていることを捉え、彼が封建的道徳観に基づいて国家や家の発展のために尽力し、そのために個を押さえ込んでいる人物・生き方であることを確認させたかった。生徒に指名しながら聞いていったが、残念ながらこの見解を正面から捉えた解答はなかった。
 続いて「まことの我」の内容について考えさせる。「まことの我」の内容や関連することが書いてある箇所に印を付けさせた。それらを取り上げ、総合することによって、「国家や家のために個を押さえ込んでいる生き方をやめ、自らの意志で主体的に生きていこうと決意する自分」であることを確認した。ここは時間があれば、どこに印を付けたかを生徒に発表させ、それをまとめていきたかったところである。
 このことを踏まえると、次の第4問を考えることができる。

4.豊太郎が「生きたる辞書」になるのは耐えられるが、「生きたる法律」になるのが耐えられないというのは何故か。

 「生きたる辞書」として知識が増えるのは、主体的に生きようとする生き方に矛盾しないが、「生きたる法律」になるとは他人の生き方を制限しようとすることである。これは主体的に生きようと決意した豊太郎にとっては、自らの生き方と矛盾することであり、耐えられなかったのであろう。そのように生徒に説明した。
 想定していた授業の流れとしては、この「まことの我」に目覚めた豊太郎が、しかしすべてを終えた現在の時点から振り返ると、結局は自分の「弱くふびんなる心」であったことは変わらず、他人の声を恐れ、その声に聞き従っていただけだったと挫折感を味わっていることを確認したかった。だが、残念ながら時間切れ。うーん、後5分あればともかくも説明しきれたかもしれないのになぁ。
 やはり1つの時間に4つの質問を盛り込むのは難しいのかな。大きな質問をして生徒に考えさせるのは3つが限度かも知れない。