「舞姫」の授業:生徒への作業目的と真の目的

 今日は現代文の授業が2クラスあった。今週の土曜日には体育祭があるので、今日から授業は午前中のみとなり、午後は体育祭準備になる。それでも現代文の授業は毎日欠かさずある。時間割のマジックである。
 さて、1クラスは問題集による演習であった。もう1クラスは「舞姫」の授業である。まずは話し合いの授業を行ったことへの意識調査を行い、そして第1段落への質問を書かせた。第1段落の中で自分が分からない箇所を書き出すよう指示した。何しろ重要なのは「問いに答える」ことよりも「問いそのものを持つ」ことである。「問い」を持つことができたら、実はそれは内容理解が半分以上終わっている、と言えるのではないだろうか。問いを書き出すことのできるプリントを作り、それを配ったが、生徒はあまり活発に問いを書けてはいないようだった。
 その後、昨日理数科で行ったように、豊太郎とエリスの人生をたどる図を各自で作らせる。さすがに話し合いに慣れたクラスだけあって、作業を開始させると活発に話し合いをしながら豊太郎とエリスの年齢を割り出していった。あるグループは豊太郎とエリスの年齢差を割り出した後、それが自分たちだったらどうなるかと話し合っていた。素晴らしい反応である。そのように、豊太郎とエリスとを自分たちならどうなるかと考えてもらうことがこの作業の目的である。彼らに示した、豊太郎帰国時のエリスの年齢と妊娠月齢を割り出すという目的は実はフェイクである。私の設定した真の目的は、生徒に豊太郎とエリスとの経験を自分たちのものとして感じ取ることである。どうやらその目的は果たせたようだ。
 この場合、「豊太郎とエリスとの経験を自分のものとして感じよ」と要求しても無理であろう。感じ取ることを要求することはできない。そうではなく、別の作業を通して、感じ取ることを自然とできるようにすべきであろう。一応、「Aをさせたいのなら、Bと言え」のつもりである。
 授業はさらに第1段落の具体的な読み取りに進みたかったのだが、やはり上記の作業は時間がかかる。今回はこれでほとんど終わってしまった。