「舞姫」の、豊太郎とエリスの人生をたどる

 今日は現代文1クラスのみ。昨日朗読をしたクラスである。今まで1週間に1回あるかないかのペースでやって来たこのクラスには珍しく、2日連続して授業がある。やはりこうでなくては生徒の記憶に前回の授業の内容が残っていない。
 いきなりミニ・レッスンから始めようかと思っていたのだが、その前にすべきことがあった。今日の授業で扱った内容は以下の3つ。

  1. あらすじの確認をする。
  2. 初発の感想を書かせる。
  3. 豊太郎とエリスの人生を一覧できる図を作成する。

 あらすじは、昨日の授業で充分終わらなかったものをしっかり確認させた。ある程度の時間を与えてプリントの穴埋め作業をさせたのだが、生徒はかなり手こずっていたようだった。
 続いて初発の感想を書かせた。10分間だけに時間を区切り、それで書ける程度のものでよい、とした。それでも生徒はかなり長文を書いてくれた。
 そして、豊太郎とエリスの人生を一覧できるように、黒板に2本の横棒線を引き、そこに豊太郎の誕生から現在まで、エリスの誕生から現在までを図で表すよう求めた。作品本文の中から時間を確定できる記述を拾い上げてサイドラインを引かせ、それを手がかりに図に二人の年齢や事件などを記入させた。ここで明らかにしたいことは2つある。1つは豊太郎が日本に帰った時、エリスは何歳だったのかということと、もう1つはその時エリスは妊娠何ヶ月だったのかを推測することである。豊太郎が帰国した時、エリスは19歳。その時彼女は、私の推測によれば妊娠7ヶ月であった。
 この作業によって、この物語の悲劇をより具体的に実感して欲しいのである。絵空事の赤の他人の話ではなく、自らが感情移入できるような身近なこととして生徒に感じて欲しい。それでこそ登場人物たちの心情や、豊太郎がエリスを置き去りにしなくてはならなかった、その心情をより切実に感じ取ることができるだろう。他人の心情を推測するためには、できうる限りその他人の状況を再現することが必要である。その努力を積み重ねない限り、軽率に豊太郎を非難することはできない。

教育実習生の研究授業を見た

 今日から教育実習生たちの研究授業が始まる。今年は国語科に3人の実習生が来ている。本校の国語科としては久しぶりの実習生である。どうも最近、本校の卒業生の中で国語の教員になろうとする者はあまり多くない。ここしばらく実習生は来ていなかったのだ。
 その一人の研究授業を見る。2年生の古典、「方丈記」の冒頭の授業であった。生徒に指名して割り当てた箇所の訳文を黒板に書かせていたのが斬新であった。ともあれ、話す時の声の大きさ、指示の明確さ、板書の字の見やすさなどといった最低限の基本中の基本は充分クリアしていた。まずはこれができれば実習生の授業は成功したも同然である。そして、生徒に指名をしていたのだが、座席順に順番に指名していた。これは残念。文法の確認など、誰が答えても同じになる発問の場合はこれでも良いだろう。しかし、作者の意図を問うといった授業の核心の発問でも、同じように順番に指名していった。これでは他の生徒たちはお客さんである。彼らは教員と指名された生徒との会話を黙って傍らから見ているだけに過ぎなくなってしまう。そこには「学び」は起動しない。まあ、ベテランでも陥りやすいことだけれどね。
 そして、私にとって違和感があったのは、この授業が「教員が生徒に正解を与える」授業であったことだ。そうしたタイプの授業があっていいとは思う。教員の方に伝えたい何かがあり、それを効率的に生徒に伝えていくタイプの授業だ。だが、私はそうしたタイプの授業からはもうだいぶ意識が離れている。無論私もそういうタイプの授業を展開する。特に古典はそうだ。だが、今の私はそうではないタイプの授業を追究している。それは「教員が生徒と一緒に探究する」授業である。私は生徒と共に学びたい。生徒とともに分からないことを追究したい。そんな授業のあり方を求めている。そうした自分のあり方を再確認させられた。