閑話休題、読解方略の伸長について

 今日は2コマ授業があったが、どちらも古典である。現代文はなし。「舞姫」の授業もちょっと休憩である。何となく、自分が古典も教えているという事実を忘れそうになるほど、ここ数日は現代文に力を入れていた。それはそうだ。何しろ一つの集大成だからね。
 私の研究テーマは「話し合いによる読解方略の伸長」である。読むことの指導とは読解方略の伸長である、と言える。その読解方略の伸長には個人での取り組みも行うが、読解方略の性格上、他者との交流の中で取り組んでいく。その、他者との取り組みによって読解方略を伸長させていく、その指導のあり方について私は探究している。
 そのあり方について、先日の学会に行って大変大きなヒントを得、私の研究の方向が見直しを必要とするようになった。それは次の2点に集約される。
 まず1つ目である。上に書いたように、読解方略にはその性格上、他者との交流の中で指導していくことがもはや必然的である。他者との交流は「あまり取り組まれない特別な指導法」ではなく、「全く当然な指導法」である。何故なら、読解方略の伸長とはメタ認知を前提とした現象であり、メタ認知を学習者に行わせるためには個人で考えさせるよりは他者との交流をさせる方がよいのは当然だからである。したがって、アメリカのReadingでは他者との交流があまりに自然に行われている。また、他者との交流ばかりを行われているわけではない。個人で取り組んだり、他者と交流したり、学習者の発達に応じてしっかりとしたカリキュラムの基にそれは行われている。とすれば、他者の交流ばかりを取り上げている私の研究方向は一方ばかりを見ているのではないだろうか。
 2つ目は、単に個々の、あるいは全体の、読解方略を伸長させるのではなく、読解方略を学習者自身が選択的に、自覚的に行使する、「自立した読者」の育成こそがアメリカのReadingの授業において実践していることだ、という事実である。私の場合、読解方略の伸長を促す指導のあり方について模索してきた。だが、読解方略指導の現在は、そのような伸長を促すことではなく、伸長された読解方略をいかに学習者が自覚的に行使できるようにするか、というあり方を追究しているのである。これは私の研究の方向性の修正を迫られることであった。しかし、私に残された時間は後わずかしかない。この方向性で修正し、実践するとしたら、今行っている「舞姫」の授業では不可能である。次の教材で取り組まなければならない。
 というわけで、ちょっとインターバルな1日であったが、考えることは山積している。