挑戦と、新たな創造の試み

 大仰なタイトルだが、最近の私の授業はそんな気持ちで日々取り組んでいる。
 今日は現代文が2コマ、古典が1コマあった。昨日も同じ。週16コマある私は、現代文と古典がそれぞれ同じコマ数なのだけれど、何となく現代文の方が多いような気がする。それだけ、現代文は気合いを入れて取り組まなければならないからだろう。数日前にも書いたように、古典は、何はともあれ口語訳をしっかりすれば授業として成り立つ、という面がある。もちろんそれだけではいけないのだけれど、最低限それさえやればとりあえずOKである。しかし、現代文はそうはいかない。文章に何が書いてあるかなど、読めば分かるからだ。しかし、そこから何が分からないのか、何を問題とすべきなのか、そしてそれをどう解決するか、という「問題発見」と「問題解決の方法」と「模範解決」とを示さなければならないのが現代文だ。よって、現代文は日々「新たな創造」と言ってもいいような気構えで取り組む必要がある。
 今日は「真実の百面相」の第2段に入っていった。この段で考えて欲しいことは3つあった。まず1つ目は、筆者の言う「一面相」という言葉の意味を理解することである。その言葉の中に二元論的世界観があることを、本文の具体例の分析を通して生徒に示した。
 2つ目は、知人の人格について誤解をした人の例が挙げられており、その誤解の原因が「統計的推論の誤り」である、と表現されている、この「統計的推論の誤り」を分かりやすく説明することである。私はまず「統計的推論」が何を指すのかを、自分で具体例を分析した図式を参考にさせて、生徒に考えさせた。生徒はしっかり答えてくれた。これは「ある人が多く行動することが、その人の本当の人柄を示していると推論すること」であるだろう。次にその「誤り」について考えさせる。これまた生徒に自分で考えさせ、次に隣同士で考えを披露し合って検討させ、その後で指名して答えさせた。生徒は「ある人の特殊な行動を、その人の一般の行動と思い誤り、その人の人柄を誤解してしまうこと」という旨を答えてくれた。OKである。ここまで順調だ。次に「では、どうすれば間違わないで済んだのか」と発問した。この解答は「特殊な行動を一般だと思い誤らないよう、その人とつき合う機会を多くする」などのことになる。だが、これでは「本当の人柄」があり、それは普段は「仮面」の下にある、という二元論から脱していない。筆者の主張と相反する解決法だ。そこで、筆者としては「そもそも『統計的推論』を用いたこと自体が誤りであり、ある人の行動パターンの多い少ないには何の意味もなく、全てがその人の本当の人柄の表れであると考えるべきだったのだ」となるはずであることを示した。生徒の解答は、いきなり筆者の意見を踏まえてのものだったので、私はちょっとびっくりしたけれどね。
 3つ目には残念ながら進めなかった。ところで、これらの授業展開を、今年の私は板書のみで行っている。つまり、授業プリントを作成せずに臨んでいるのだ。これが私の今年の「挑戦」である。授業プリントを用意しておくと、自分がどのように授業を展開していけばよいか、事前に示すことになって、安心感につながっていた。だが、それではフレキシブルな対応ができないと思い、今年はとりあえずプリント作成をしないでいる。板書のみで現代文の授業を行うのは実に久しぶりだ。もう10数年ぶりくらいだろう。だが、この方が生徒にとっては自分でノートを工夫してとることができて、良いのかもしれないね。