春は名のみの……

 3月も下旬だというのに、新潟市は寒い日が少し続いている。今日は霰が一時激しく降ったし、これを書いている26日の朝は再び隣家の屋根が白くなっている。雪が降ったのだ。さすがに道路までは白くなっていないが、道理で寒いはずである。例年新潟市は3月の下旬にもう一度寒さがぶり返すものだが、今年の寒さはちょっといつもとは違って長く感じる。「春は名のみの」と早春賦は歌い、それはおそらく東京か京都あたりの季節感覚だろうが、ここ新潟市では痛切にそれを感じる。3月になっても春の到達速度はじれったいほどに遅い。その分、春は一気に来て、そして一気に夏に変わるのだけれどね。
 今年はまた別の意味でも寂しい春である。勤務校で異動する方たちが明らかになった。毎年この異動は切なくなる。何しろ現在の勤務校に8年間連続して勤務している私である。今現在いる同僚よりは転勤していく人たちとの付き合いの方が長いわけだ。そうした、よく知り、一緒に仕事もした人たちが新しい地へと去っていくことが決まるのは本当に寂しい想いがする。まして、今年は8年前に私と一緒に赴任した人たちが8年の最長任期を終えて去っていく(新潟県では同一校8年までが原則である)。いわば同期の人たちとの別れである。切ないね。私自身はまだこの地での仕事をさせられるようで、もう1年勤務することになった。もう1人私と同様の人がおり、これで同期赴任の同僚は私とその方の2人だけとなってしまった。今年転出する人たちの中には一緒に学年を組んだ人も多くいる。それら、親しんだ方たちとの別れは寂しい。自分は残る身であっても、それなりの寂しさがある。
 さらに今年は、私の集う集会でも別れがある。6年間ともに主の働きをした学生が卒業し、別の地に就職することになった。また、勤務先の都合により海外へ赴任する若い一家もいる。どちらも親しく交わりを結び、深く共に働いてきた方々である。特にこの方々は日曜学校で一緒に働いてきた。我が家にとっては非常に関わりの深い方々である。その方々と昨日は集会で歓送会を行い、今日は日曜学校としての歓送会を行った。クリスチャンの別れは世の人々との別れとは違い、必ず再会できるという確信があるものだ。そうではあるものの、やはりいつも共に働いた方々が一時的とはいえいなくなるのは寂しいことだ。
 春は別れの季節でもある。別れは出会いも共に運んできてくるとはいえ、それでもこの1週間は寂しい思いをし続けるだろうなぁ。切ないなぁ。