集団学習では個人学習と違う学習がなされる?

 先週は風邪を引いたり、採点で忙殺されたりして、blogを更新することもままならなかった。風邪は、入試当日にお休みしたりして何とか回復できたし、採点もついに終わった。やっと、次の仕事に取りかかれる。
 そんな中、内田樹のblogで読んだ内容がふと頭によみがえり、標題のような発想を得た。私はこれまで、集団学習というのは個人学習で行われる学習を効率的に行うことができる、と考えていた。個人学習における理解の深化や自己認識の変革などが、集団での学習を用いることによってより効率的に行われる、と漠然と考えていた。だが、違うのではないか。個人学習で行われる学習と集団学習で行われる学習とでは、そもそも質において違いがあるのではないだろうか。つまり、量における違いではなく、質における違いである。あるいはやはり量も違うのかもしれない。同質の学習が、集団学習では量的に増大するのかもしれない。だがそれだけではなく、異質の学びが集団学習では展開されるのではないだろうか。
 そうだとすれば、私の研究はそれを明らかにすることになる。

  1. 個人学習と集団学習とでは、どんな違った質の学びが展開されるのか。
  2. その要因は何か。
  3. 同質の学びにおける量的な違いがあるのならば、それは何か。

こうしたことを、いくつかの集団学習での成果を観察し、違いを明らかにする必要がある。そのためには、個人学習においてもどんな学びがなされているのかも調査しておかなければならない。無論、それらの理論づけも。

小論文の授業

 試験後は小論文の授業を行っている。某G研の教材を活用している。先週金曜日にはそのG研より講師を招いて小論文の書き方について講演をしてもらった。非常によい内容だった。G研は小論文の書き方について、実によいコンテンツを持っている。
 今日はその2時間目。G研の小論文模試を活用し、そこに付いている「課題型小論文の書き方」の教材を使った授業を行った。全3時間の予定である。
 この教材も非常に良質のものである。私はこれを活用して、小論文の課題文の要約を作成するという内容を、「評論文の読み方と同じだ」として、評論文の読み方の授業として構成し直して授業を行った。
 要は、次のことをしながら課題文(評論)を読もう、というわけだ。

  1. キーワードに○(私の場合は□も)を付ける
  2. 具体例の箇所を( )でくくる(私の場合はこれはしていない)
  3. 接続語を△で囲む(教材は○で囲ませている)
  4. 各段落での筆者の意見に傍線を引く(私はさらに、一般的常識の箇所は波線を引く)

この4つの作業を行いながら文章を読む。こうしておくと後で読み返した時に、筆者の主張は一目瞭然であるし、さらに筆者がどんな常識的見解を克服しようとしているのかがすぐ分かる。評論文を速く、正確に読むためにはこれらの作業は不可欠である。そこで、生徒にこれらのことを説明しながら、実際にやらせてみた。
 生徒は真剣に取り組んでくれていたようだが、既にその箇所をやってきている者と何もやってきていない者とが混在していたので、作業内容が不統一で、今ひとつ乗らなかったようだ。次は少し改善してみようかな。

天才の栄光と挫折

天才の栄光と挫折―数学者列伝 (新潮選書)

天才の栄光と挫折―数学者列伝 (新潮選書)

 『博士の愛した数式』からスピンオフして、数学者の伝記への興味が久しぶりに再燃している。藤原正彦はその発言が今ひとつ偏っていて好きではないのだが、この本を読むと、彼がそうした考えを持つに至った経緯が分かって、ある意味面白い。いや、数学者たちの伝記は文句なく面白いのだけれどね。
 この本はあまり数学者たちの数学的功績については述べない。むしろ彼らがどのような人生を歩んだかについて、なかなかの文章で書き綴っている。大した文章力である。
 ラマヌジャンについては惜しいと思った。彼が妻を連れてイギリスに行っていれば、もう少し長生きできたかもしれないね。そうすれば、さらに不思議な定理の数々が残されたのかもしれない。
 なかなか面白かった。そういえば私は科学者や数学者の伝記を読むのが好きだったなぁ。小学生の頃は小説などほとんど読まず、ひたすらそうした伝記を読んでいた。あの頃から私の嗜好は少しも変わっていない。