生徒の作業結果を教師が統制することの矛盾

 今日の新潟市は雪! 未明から雪がわさわさと降り続き、たっぷりと積もってきた。これは30cmくらいの積雪があるのではないか? 今冬はこれで3回目くらいかな。いやはや、寒い寒い。
 そんな中、我が家ではインフルエンザが次第に浸透してきている。次男から始まったものが、三男にうつり、今日は妻が熱を出した。家族6人中3人がやられてしまった。次男や三男は峠を越したようだが、妻がやられたのは痛いなぁ。我が家は妻が司令塔なので、彼女が寝込むと家は何も動かなくなる。勢い、私が家事をしなければならなくなるので、明日の出張をキャンセルした。31日には大学院の授業があり、私が発表する番になっている。さて、そこまで私がもつかな?
 さて、今日の授業は現代文が1コマ、古典が3コマである。現代文は5組。昨日、意外にも話し合い学習に活発に取り組んでくれた彼らだったので、期待して第2意味段落以降の分析をグループでやらせてみた。20分間時間を取ったのだが、15分くらいはほとんど動かなかった。残り5分というあたりでようやく活発な話し合いが見られ、時間が足りないくらいだった。うーん、やはりこれは個人でもできる作業をグループでやらせていることが原因なのかなぁ。活発な作業をさせたいのならば、それが目的ならば、例えばジグソー学習のような手だてを取り入れなければならない。ただ、今日はこちらから指示をしないで話し合いをする、その話し合いの内容が知りたかったのである。そのため、ICレコーダーを用意して待ちかまえていた。しかし、期待に反して話し合いが進まず、録音は諦めた。なかなか思うようにいかない。
 その話し合いの後で、生徒が分析した文章構成の結果を発表させ、検討していった。第2意味段落の最初の形式段落で、生徒がこれが「主張」の文だと発表したものに対して、私は反論して私の考えるものに修正してしまった。これをやりながら、自分の中で大きな矛盾を感じていた。生徒の発表は生徒自身の反応である。その反応を尊重してやらなければならないのではないか。だが、分析している文章は論理的なものである。生徒の反応はいわば「間違った」反応である。それを教師は修正していいのだろうか。でも、そもそも「間違った」反応など存在しない。それならば、修正をするのではなく、なぜ生徒が「主張」の文をそれだと考えたのか、その根拠を聞いていくべきではなかったか。
 あるいは、論理的文章においてある形式段落における主張は1つであるのが原則である。生徒の意見も私の意見も認めるのならば、この形式段落は2つの主張を持っているということになる。論理的文章の原則が常に当てはまるとは限らないので、この形式段落ではその原則が当てはまらないのかどうか、などなどと生徒と議論をすべきところだった。ただ、議論を練習させていない生徒にいきなり議論を期待しても無理である。彼らの姿を見ると、教師が実は期待している姿によく合致するよう成長していると思う。教師は「自主性を持て」と口では言うが、授業ではその自主性を発揮させないように教えている。いわゆる“hidden curriculum”かな? ともあれ、生徒の発表に対してすぐに修正してしまった自分自身に大きく矛盾を感じた。
 古典はどのクラスも「若紫」に入り、10組は既に若紫が「雀の子を犬君が逃がしつる!」と言う箇所まで来てしまった。速い速い。まあ、前半はあまり深く検討すべき箇所はないけれどね。ただ、光源氏が多くの少女たちから若紫に注目した理由を考えさせた時は面白かった。彼が若紫を「あまた見えつる子どもに似るべうもあらず」と言う箇所の周辺から1つ、その前の段落の、尼君の様子との関連から1つ挙げるよう要求した。周辺からはすぐに若紫の際だった愛らしさを挙げたが、尼君との関連では生徒は隣同士でいろいろアイデアを交換して探っていた。それでも何とか尼君が「なやましげに」、つまり苦しそうに経を読んでいる箇所に注目することができた。そう、尼君は健康状態が悪いのである。その尼君と子どもたちとの活発さとの対照に加えて、その際だった美しさから、源氏は若紫に注目していったのだろう。