『こころ』読解の授業

 まったく、ちょっと油断するとすぐにblogの更新が滞ってしまう。それだけ忙しい毎日を生きている。これがいつになったら終わるのやら……。
 9組での授業。4クラスの中では一番進度が速い。今日はいよいよその核心部分である、Kが「覚悟、−−覚悟ならないこともない。」という場面と、Kが襖を二尺ほど開けて「私」の名を呼ぶ場面である。ちょっと油断して、「覚悟」について考える時間が長くなってしまい、襖を開けていた意味について考える余裕が十分になくなってしまった。それでも、とても面白かった。
 生徒に、Kが襖を開けて私の名を呼ぶ場面について、「Kは何故「私」の名を呼んだのか?」「そもそもKは何をしていたのか?」という問いを立てて、生徒にペアで考えさせた。教卓のすぐ前に座っていたペアがいきなり「「私」が起きるかどうか確かめていたんじゃないか?」と話し始めたのにはびっくりした。そう読むことのできる生徒もちゃんといるんだなぁ、と感心する。
 話し合わせた後で、まずKが「二尺=60cm」も襖を開けた理由について考えさせた。生徒からはなかなか答えが出なかった。10cmの細い間隔ではできなくて、60cmという広い間隔ならできること、とヒントを出してみた。それでも答えられる者はいなかった。そこで、Kは私の姿の全身を見ていたのだろう、と示した。
 次に「私」の名を呼んだ理由について考えさせる。生徒は「私」と話をするため、と答えた。それなら襖を開けなくても良い。「私」の全身を見て、それから「私」の名を呼んだのは何故なのだろうか? なかなか生徒は答えられなかった。そこで、自分が声をかけて起きるかどうか確かめていたのだろう、と示した。
 最後に、それでは「私」が起きるかどうか確かめるのは何故かと問うてみた。ここで私は失敗した。せっかく良い考えを持っていた最前列のペアに指名すれば良かったのだ。時間がおしていたために、つい全員に問いかけた後で私が考えを示してしまった。Kは私が寝ている間に何かをしようとしていて、それができるかどうか試していた、ということである。
 なかなかスリリングな時間だった。二尺も襖を開けて、私の全身を見ていたのだ、と示したあたりで教室に緊張感が走った。そう、ここは結構ゾクゾクする場面なのだ。その感覚を生徒に起こさせることができたなら、嬉しいなぁ。
 しかし、本当はその先まで行きたかった。私は、Kは「私」の全身を見て、怨みなど思っていないはずだ。悲しかったのだ。自分の理想の道が崩れた悲しみを「私」に訴えたくて、でもそれができずに淋しく、孤独でいたはずなのだ。自分の気持ちを「私」に伝えたかったはずなのだ。だから「襖」を開けたのだ。「襖」が開くことはKの心が開くことでもある。彼は自らの心を開いて、「私」に分かって欲しかったはずなのだ。だが、おそらく恥ずかしさのゆえに、彼は自分の心を告げることができなかったのだ。
 うーむ、今年の『こころ』の授業は面白い! ファシリテーショングラフィックを使って話し合いを既に経てきているせいで、こちらが何を話しても生徒の心に到達しているような感覚がある。そこで、こちらは生徒にいろいろ発問しながら、小説の箇所がどう解釈できるか一緒に考えていけるような気持ちになれる。いやぁ、これはいい。近年で最高の『こころ』である。