小説の授業の時間数が多い

 9組での授業。昨日、評論に入り、今日は同僚から授業をもらって、授業をした。そうでもしないととうてい間に合わない。それほど時間数の厳しい中で授業をしている。「山月記」で時間を使ったからねぇ。でも、多くて13時間、普通は11時間くらいなのだけれど。もちろんこれでも多いだろう。だが、通常の授業をすれば小説の授業の場合、これくらいは軽く行ってしまう。
 小説に取りかかる場合、どうしても時間数がかかる。「羅生門」もおそらく10時間くらいはかかるだろう。「こころ」などは少なくても15時間くらい。「舞姫」も15時間は下るまい。何故このように10時間以上も小説の授業にかかるのか。それはもちろん、「詳細な読解」を行っているからである。「山月記」の場合、7つの場面がある。それら一つ一つの場面において、李徴らの心情が吐露されているところがある。その意味、理由を考えさせていくのである。だいたい、1つの場面に1時間くらいかかり、それに加えて音読の時間や小説構造の確認、背景の確認などを行うと、もうそれで10時間は超える。
 しかし、一つの作品に10時間以上もかけるのはどう考えても「まとも」な読書体験ではないなぁ。普通の読書なら、「山月記」の場合は30分くらいで読み終えてしまう。そして、「ふ〜ん」と思ってそれで終わり。興味が湧けば中島敦の別の作品を読むだろう。普通の読書と学校の授業とは、同じ作品を読むのだけれどあまりに内容がかけ離れている。
 むろん、1回読んだだけでは分からない作品の深みというものがある。それを理解するために一段深く読み込んでみよう、というのは理解できる。しかし、一つ一つの場面において一つ一つの心情の理由や内容を確認するのは、そんなに価値のあることなのかな。
 もう少し通常の読書経験を授業に持ち込んでみたいなぁ。まあそれは「多読」という形になるのだろうが。そうすると他の同僚との進度・内容の調整が必要になって、そのために踏み込むことはできないのだけれどね。