短歌の授業で「古畑型授業」を試みるPart2

 9組での授業。昨日と同様、与謝野晶子石川啄木の短歌を「古畑型」授業で実施する。このクラスでは、昨日の6組での反省を活かし、与謝野晶子の短歌を教える際に、到達点を巷間の評価ではなく、短歌の主題そのものとした。つまり、

この短歌の主題は「自己を肯定する青春への賛美」である。その根拠を短歌の中から見つけよ。

という課題を与えることになる。
 授業は、まずは短歌への発見・疑問を上げることから始めた。生徒からは次のような解答を得た。

  • 「おごりの春」が「うつくしきかな」とつながるのは何故か
  • 何故「春」なのか
  • 「黒髪」と「おごりの春」とのつながりがよく分からない

最後の疑問は、まさにこの短歌の核心部分をついたものである。よくぞここに気づいてくれた。
 その後、短歌の主題を示して、その根拠を指摘させた。生徒からは次の解答を得た。 

  • 「おごりの春」の箇所がそれらしい
  • 「うつくしきかな」

だいたい以上のようなものであった。あまり予想したほどには発言は活性化されなかった。むしろ、昨日の6組で示した世評の方が、もっと活発に話が出たように思う。うーん。クラスの雰囲気の差なのか、それとも主題を示してその根拠を探させるという課題はあまりに易しいのか。
 上記のような指摘が出ることは当然予想していた。むしろ、それが出てきて欲しい。ただ、ここで考えさせたいのは、何故「春」を「おごる」ことができるのか、春を、つまり自分の青春を「うつくしきかな」と歌えるのは何故なのかということだ。つまりはその革新性、斬新さを見いだして欲しいのだ。
 その目的から考えると、短歌を当時の時代背景から考えることを思いつかない生徒はそうしたことを疑問にも感じないだろうなぁ。青春が美しいのは、彼らにとっては当然のことだからだ。ある生徒は友人との話し合いの中で、「二十なのだから、成人式に参加した時(初春だから季節はあっている)の歌ではないか」と解釈していた。うーむ、誤読も甚だしいが、しかし短歌以外の情報を持っていない状態では大健闘した解釈だと言える。
 本文に書いてあること以外の情報を用いて本文の解釈を深める、という能力は、やはり意識的に育てなければならない。こちらがそうするだろうと期待だけするのは難しいことなのかもしれない。不可能ではないだろうけれどね。