授業での解答と試験での解答との乖離

 9組での授業。昨日は3組であった。「材のいのち」の4時間目と5時間目である。
 どちらのクラスも、一昨日に感じた「既有知識を活用して設問を解く」ということを意識して授業を構成した。この授業では私が作成した設問プリントを使い、まずは生徒に10分間解答させた後、私が生徒に指名しながら解答をまとめる、というスタイルを取っている。その際、生徒に指名する前に以下のことを指摘した後で、質問していった。

  1. 設問を答える際に注意すべきポイント
  2. 設問を解答する際に使うべき既有知識

 例えば、次のような質問がある。

  • 「楢二郎さんは……気分が良くなさそうに見えた」とあるが、それは何故か。

 これに対する解答はこの部分のすぐ前に書いてある。「今日、話そうと思っていたことが縁起の良くないものだったので、言おうか言うまいか迷っていたから」というものである。しかし、この解答には2つのポイントがある。そして、実はこの設問は、小説の心情説明の問題と同じものだということが分かる。それならば、心情説明問題の解法である「事態」→「心情」→「行動・セリフ」の3点セットで考える、というものが使える。
 そこで、生徒には、これは心情説明問題と同じであることを説明し、設問の部分は3点セットのうちの「行動・セリフ」に当たるので、解答には「事態」「心情」の2点を含めなければならないことを説明する。その後で、生徒の解答を修正させるのである。
 案の定、指名した生徒は2点をきちんと含めて解答することができた。
 考えてみると、現代文の設問はこのように既有知識を踏まえて答えたり、文脈を踏まえて必要部分を加えて答えたりしなければならないものが多い。だが、それらの設問は、単に文章から必要な情報を抜き出してくればいい設問と同じ扱いを受けて生徒の前に提示される。つまり、文章を読み込むレベルの違いがある設問を、全く同じような扱いで生徒に示されるのだ。これでは、レベルの違いを意識して解答する態度を変えるということができないだろう。今まで現代文ではずいぶん無茶苦茶な要求を生徒にしてきたものだ。
 通常、現代文の授業では一つの設問が示され、それに対する生徒の答えを、不足している部分があればそれが出るよう補足質問を加えて補わせたりする。そして、あたかも最初から生徒がその完全な解答ができたかのように飾って板書して示す。授業ではそのように補足質問をしなければ完全な解答が得られないような設問を、試験ではやはり単発の形で出題し、そして解答の不完全さを嘆いて△をつけて減点する。しかし、それは一種の詐欺じゃないかなぁ。だって、2つ以上の設問によってようやく到達する問題だったのに、それを1つの設問で答えさせようとするのはいかがなものだろう。
 それならばせめて、授業において1つの設問からどのように考えるべきなのか、その考え方をしっかり教えておくべきではないか。1つの設問に含まれている解答構成のための複数段階をどう読み取らせるか、それをしっかり教えるべきではないか。それでこそ、その複数段階を踏まえずに答えた解答について、試験では思いっきり△をつけることができる。教えていないことを要求する試験というのはどういうものかなぁ。
 そういえば、20年くらい前の生徒から、「先生は授業の時にはさらりとした解答を教えるが、試験ではいろいろなことを含めた解答を(格好良い解答を)要求する。何か、ずるい。だから現代文はよく分からなくて、嫌いだ」ということを言われたことがある。その時は、何を生意気なことをと思い、何とかごまかして生徒に答えたが、今から思えば、上記のようなことではなかったのかと思い至った。教師というものは、本当に20年くらい経たないと自らの経験から学ばないものである。新潟N高校の当時の生徒諸君、ごめん!