この沈滞ムードが財産かもね

 9組での授業。久しぶりの9組である。全体としては6時間目の授業。「羅生門」の本文読解の最後の部分である。
 このクラスは席替えをしているが、以前の席に戻ってもらい、グループのメンバーは変更しないで最後の読み取りを行わせた。本来こうすべきなのである。6組での対応が間違ってしまったのだ。深く反省する。
 前回のレポートをまとめたプリントを配って、鋭い読みを確認させる。次に私の問題例に対する解答例を配り、解説をする。この時が、いわば従来の「羅生門」の授業と共通しているところかな。教師の読みを解説しているのだからね。邪道だとは思うが、学年共通のテストを行う以上、これは最低線の共通情報であろう。それでも、この解説をすることで、生徒の読み取りが整理されてくれることを願うばかりである。
 さて、最後の場面、下人が老婆の論理を逆手にとり、老婆の着物を引はいで羅生門の外の「夜の底」へ駆け降りて行く場面である。4人グループで話し合いをさせ、再度司会進行役の重要性を話し、互いに意見を交換するようにと訴える。それにも関わらず、相変わらずこのクラスは話し合いが沈滞する。終始活発に話し合いをするグループもあるが、終始不活発なグループもある。相変わらずだ。
 しかし、ある意味、このグループによる話し合いの不活発な状況を目にすることが出来たことは、今回の授業実践の一番の成果なのかもしれない。つまり、「話し合いをする場を設けるだけでは、話し合いは進展しない」ということである。というよりは、「話し合いを強要される場においては、話し合いが進展するとは限らない」と言うべきか。強要されても話し合いが出来る者もいれば、そもそも話し合いが苦手な者もいるはずである。「話し合い」という対人関係が大きく左右する学習形態は決して悪いものではない。しかし、それだけしか選択肢がない学習環境はあまり良いものとは言えないだろう。様々な学習法があり、それを各自の適性に合わせて選択できるという学習環境が必要なのではないか。人間はそれぞれに得意な学習方法がある。それを自らの学びに活かせるような学習環境が必要なのである。これが、今回の授業実践を通し、またその間に様々に見聞きし、考えたことを通して、今現在得たことである。
 『学び合い』はそもそもその学習方法を自らが選ぶことが大前提である。ライティング・ワークショップやリーディング・ワークショップは学習方法を様々に提示するが、それを選択するかどうかは子どもに任されている。そうした点は、ワークショップ型授業においては大原則なのだろうね。