教育研究はパッション(情熱)の表明である

 縁あって、足立幸子による滑川道夫読書教育論についての諸論文を読んでいる。合わせて、最近発表された滑川読書教育論についての論文2編も概略をつかんだ。
 私はこれを、研究の仕方を学ぶために読んでいる。研究とはいかなる行為なのか、そして研究とはどのように行われるものなのかをつかみたいと思っている。その結果理解したことは、「教育研究とはバッションの表明である」ということだ。
 足立氏も他の2編の論文も、滑川読書教育論について取り上げている。これは、読書教育論の主要論者である滑川道夫氏を取り上げることで、最近必要性が痛感されている読書教育の源流を探り、背景について考察している。これらは、今、読書教育についてしっかり考えなければならないのだ、という情熱に基づき、それをしっかりととらえるためにも滑川道夫氏を取り上げている。つまりは、研究者のパッションの表明と、その証明とが動機となっている。
 思うに、広く研究とは、そして教育研究とは、こうした研究者のパッション(情熱)を表明しようとする行為なのではないか。自分が必要だと思ったこと、理解したいと思ったこと、あるいは疑問に思ったことを知りたい、理解したい、そして知り得たことを言い表したい、という行為なのだと思う。
 そのパッションさえ存在すれば、それを表明する方法はきわめてプラクティカルになる。

  1. 自分の知りたい、と思う分野における先行研究を探す
  2. それを読んでその不備の部分や未解決な部分を確定する
  3. それらの解決に必要な資料・文献を探す
  4. 以上をまとめる

ということになる。
 教育研究の場合はさらに、「解決法となる授業を開発し、実践して、効果を測定する」ということが加わるだろうか。
 これらの行為の中で、最も重要なのはパッションの部分、つまり「問いを立てる」ということになる。各種の研究法の本がこぞってこの「問いを立てる」ことの重要性を説くのは、そのためなのだろう。
 さて、私はどんな問いを立てることができるのだろうか。足立先生は、「その問いが『良い』ものであるべきだ」と教えてくださった。つまり、関係者から、あるいは一般から、その問いは解決するに値するものであると認められる問いであるべきだ、というのである。その通り。解決しても何の役にも立たない問いは、単なる自己満足に過ぎない。「良い問い」を立てること、これが私の目標である。