「利休の死」の授業

 1組での授業。「利休の死」の読解に本格的に入った。プリントを使っての読解作業である。
 このプリントは転勤していった同僚が作ってくれたものだ。そして、ストーリーの流れを丁寧に追う、非常によくできたものである。しかし、残念ながら私が重要だと思うポイントと少しずれているところがある。そこで、そこを補いつつ、読解を進めた。
 最初の場面で一番重要なのは、利休が「今日は何かがやってくるだろう」と確信するところだと思う。天正19年2月28日の朝、利休は何故、かねてから予感し、自分が待っていた死の死者がやってくると確信することができたのか、それを考えさせるのが最大のポイントである。
 それはその朝、暁闇の頃に雪が降っていたと見たのに、明るくなると雪がやみ、使っていた下女は雪など降っていないと言う。しかし、利休が庭を確認してみると、雪の解け残りが残っている。このように、幻影かと思っていた雪が、確かに実景であったのだと確認できた時、彼はかねてから予感していた死の到来が今日であると確信できるのである。
 しかし、この読解はかなり難しい。これは、本文の「今日は何かがやってくるだろう」という記述のかなり後ろにある同じ表現で、利休の予感から確信へという変化を踏まえつつ、問題の箇所の直前にある、雪の幻影から実景へという認識の変化を結びつけなければならないのだ。問題の箇所の直前や周辺ばかりを探すことだけに慣れている生徒にとっては、この読解はかなりアクロバティックなものだ。しかし、読解とはそういうものである。同表現にある説明は、当然前の同じ表現の箇所にも生きる。
 そこで、それを実感させるべく、次の展開で授業を行った。

  1. まず、「今日は何かがやってくるだろう」と利休が思ったのは何故か、各自で考える。
  2. 隣同士などで考えを紹介し合い、確認させる。
  3. 上記の、同表現がどこにあるかを指摘させ、そこにある利休の心境の変化を確認させる。
  4. 問題の箇所に戻り、直前の箇所で「変化しているもの」が何かを考えさせる。

つまり、まずは各自で考えさせ、次に考え方を示して、自分の考えを修正させるようにしたのである。
 さて、生徒はどうだっただろうね。時間の都合で第1段階での生徒の考えは確認しなかった。おそらく、生徒には見当がつかないだろうと予測したこともある。第2段階では、十分に答えることができたけれどね。