英語の同僚の公開授業を見て

 昨日、本校の英語の同僚が公開授業を行った。その同僚は英語の文章を短く意味のあるまとまり(チャンク?)ごとに区切り、それを生徒に指名して訳させていく、という手法を取っていた。その指名の仕方もまた一工夫あったのだが……。名付けて「割り箸指名具」。あれは良いなぁ。また、これらの和訳の前には、生徒に隣同士で自分の訳の確認をさせていたようだ。これは生徒が予習をしてくるということが前提になる。そうした上で、「風のように」次々と生徒をランダムに指名し、短いチャンクごとに訳させていく。和訳ということを意識させない、すごい実践だった。
 ただ、英語の授業の場合、英語は英語自体を生徒が「使う」ようになるのが一つの大きな目的である。そのため、和訳は手早くすませて、むしろ英語を使って表現することに重点を置くべきであろう。しかし、古典の授業の場合、古典を「使う」ことはあり得ない。古典の表現を日常表現の中に活かすことはあっても、文語で「話す」ことはあり得ないし、漢文を「書く」こともない。よって、古典の場合は文章の内容を十分に理解し、味わうということが授業の大きな目的となる。その点、数学の授業と似ているところがある。数学は解法や数学的思考法を理解する。古典は古人のものの考え方を理解する。
 そのような場合、「風のように」和訳をしていくことはある意味では古典にはふさわしくないかもしれない。訓古注釈まではいかないものの、一つ一つの表現にこだわって、じっくりと考えることが必要なのかもしれない。