「天声人語」より:先生、それはないでしょう!?

 昨日の「天声人語」に興味深い話が記されていた。

 福島県で刊行されている児童詩誌『青い窓』を、いつも送っていただく。主催していた佐藤浩さんから聞き、ずいぶん前の小欄が紹介した一編を、逸話とともに思い出した。
 〈お母さんが 車に はねられた
  お母さんが 病院の れいあんしつに ねかされていた
  お母さんを かそうばへ つれていった
  お母さんが ほねに なってしまった……お母さんを ほとけさまに おいた
  お母さんを まいにち おがんでいる〉
 書いた小学4年生に、担任は「お母さん」は1回だけでいいと指導したそうだ。だが、児童は直そうとしない。迷った先生から相談を受けて、佐藤さんは言った。「何回でも、何万遍でも書かせてあげてください。その子の悲しみをわかちもって……」

 「天声人語」は、ここから例の大阪で起きた小学4年生の殺害事件へと話が転じていく。それもそれで怒りがこみ上げてくるし、母を思う子どもたちの思いを踏みにじる社会の現状にも怒りがこみ上げてくる。と同時に、私はこの先生へも怒りがこみ上げてくるのを押さえられなかった。
 「お母さん」と連呼するのを、「1回だけでいいと指導した」とは何たる無理解だろうか。この詩における感動の源はまさに「お母さん」の連呼にある。いや、そんな詩の効果などどうでもいい。言葉がくみ上げようとしているこの子どもの心を、直そうとするなど何事だろうか。言語道断である。
 しかし、決してこの先生を責めてばかりはいられまい。私自身の中にも、こうしたことがないとは言えない。生徒の気持ちに寄り添えるかどうか、そんなことが教師には日々問われていると思う。