和歌の授業:近しい方の死を知らない悲しみ

 7組での授業。柿本人麻呂の泣血哀慟歌の反歌2首を扱う。その前に、長歌の詞書きにある「泣血哀慟」という言葉の内容について、長歌を復習させる意味でも問うてみる。生徒の答えは外れてはいないものの不十分だったので、少々復習してやる。その時に、ふと穴見先生のことを思い出した。
 人麻呂は愛する妻が死んだということをしばらく知らなかったのだ。あまり何度も通ったら人目に立ってしまうので、そのうちにと思い、これから長く通おうと思っていた妻が、自分の知らぬ間に死んでしまったという知らせが届く。ああ、これはまさに我々が穴見先生の死を知った時の状況に似ているなぁ、と思った。そして、その悲しみは、「愛する者が死んだ」という悲しみよりも、「愛する者が死んでしまったことを知らなかった」悲しみなのだと気づいた。愛する者であればその全てを知りたいと思うのが当然だ。しかし、それを知らなかった悲しみ。愛すればこそ、元気でいることを信じ切っていたことが覆された悲しみ。そういう種類の悲しみなのだと、悲しいことながらも理解した。
 全く、人は様々な種類の悲しみを味わう。そしてそれは、実際に味わってみなければ理解できない悲しみなのだ。そして、その悲しみをすでに万葉の時代に表現していた表現者がいたということにも驚きを覚える。古典を学ぶとは、こんなことも理解できることなのだ。
 その後は、紀貫之の短歌を扱う。わかりやすい歌ながら、これが当時の桜花に対する典型的な表現だったのだということを強調する。そして、古今和歌集こそは日本人の美意識の典型を作り出した歌集なのだということを教える。日本人のものの見方は平安時代に確立したのだね。
 我々は伝統の中に生きている。我々は意識しなくても、我々の考え方がすでに伝統によって規定されている。それがまた我々のアイデンティティを形作っているし、我々の独自性にもつながっているのだろう。