「項王の最期」の授業

 今日は冬休み前最後の授業。6組にて、「項王の最期」を終える。変に年を越さずに区切りの良いところで終えることができて、満足である。その代わり、他の2クラスはまだ項王は生きているのだが……。
 ここの場面で一番考えさせたいところは呂馬童の「面ス」という言葉をどう解釈するか考えることだろうなぁ。呂馬童がかつての主君である項王に対したとき、彼が項王に「面シテ」となる箇所がある。その「面」をどう解釈するかだ。多くの解釈はこれを「顔をそむけて」と解釈する。数研出版の教科書もそのように脚注をつけている。しかし、「面」に「そむける」という意味があるというのはなかなか難しい話だ。実際、漢和辞典を一つ引いてみたら、確かに「そむける」という意味はあるものの、それはこの箇所を用例に引いている。他にそうした解釈ができるのか不勉強のため分からないが、難しいのではないかなぁ。まともに解釈すれば「顔を向ける」でしょう。事実、漢文大系だったかでは「顔を向けて」と解釈している。
 この「面」を「顔をそむける」と解釈するのは何故か、これを生徒に考えさせるのがこの箇所の勘所である。そこで、こう質問してみた。

発問:この箇所で、何故「面」を「顔をそむける」と解釈するのだろう?

 生徒の答えは以下の通り。

答え:項王を討とうとするこの場面で項王と顔を合わせるのは「恥ずかしいことだから」。

 ちょっと正確ではないが、生徒はこのような答えをした。その通りですよね。ここは、おそらく呂馬童は良心の呵責を感じただろう、という解釈者の解釈によって、このように訳させるのだよね。
 それはOK。その通りである。ただ、私はもう一つの可能性も考えておきたい。
 この後の項羽の自害後、項羽の遺体の争奪戦が起こる。何しろ彼の首には賞金と領地が賭けられているのだ。そして、最終的に5人が項羽の遺体を手にし、賞金を取った。そのうちの一人に呂馬童がいるのだ。それを考えると、彼が項王を目の前にした場面で、功利心のために「これが項王だ!」と指さしてひたと見つめたと解釈することもできるのではないかなぁ。そして、それもまた人間の真実の姿なのではないだろうか。
 あまり性善説ばかりで解釈するのもどうかなぁ。人間の姿について、ひとしきり考えさせるよい場面であった。
 授業は、この後、項羽の人物像について木曽義仲と比較させながら作文を書く、という展開を用意していたのだが、とうていそんな時間はなかった。仕方なく、用意したプリントを配って、書く気のある者は書いてね、ということにしておいた。うーん、予想以上に時間がかかったな。