「こころ」と「永訣の朝」の授業

 なんかいろいろあって、日記を更新できないでいた。そんなに忙しかったわけではないのだが、更新しようとして日記を立ち上げると書き込み不能になっていたり、昨日などは「混み合っているので後で試してください」というメッセージが出た。混み合っているのは仕方ないにしても、「はてなブログ」は時々書き込みができなくなる。と、ここで書いてもどうしようもないか。
 さて、授業である。現代文の方は今日の3組の授業で「こころ」を全て終えた。試験範囲にKの自殺の部分を含むことができなかったのは残念だが、試験後の授業でその箇所を存分に話した。まあ、今日の3組は試験後初めての授業で、しかも年内ではこれが最後なので、たった1時間でKが私の婚約を知る場面から自殺の場面まで話さなければならなかったけれど。さて、今回の「こころ」の授業を生徒はどのような感想を持ったのかなぁ。前半は生徒自身がグループの中で読み取りをし、レポートにまとめさせた。後半は私が説明をした。生徒にしてみれば、自分たちが考えた読み取りが、私の説明によって検証されるという構造になっている。そうであることを願ってこの順番にした。しかしあるいは、自分たちの読み取りが教師の説明によって否定されるという構造にもなっているわけだ。「検証」とは、自分たちの読み取りが教師によって支持される場合もあれば、否定される場合もある。できればこれを生徒同士の話し合いの中で実現していきたかったが、とうてい時間が足りなかった。そうした話し合いによる小説の読み取りは、もう少し授業の展開を工夫することで実現できるような気がするなぁ。ちょっと今回は不完全燃焼である。
 9組では宮沢賢治の「永訣の朝」に入る。「こころ」を終えた後、本来ならば評論を読み進めたいところである。しかし、年をまたいで評論を読むのもねぇ。ということで短い教材で時間調整をしようと考え、「永訣の朝」を読むことにした。
 ところが、これがダメなのである。さすがは「永訣の朝」。短時間で取り扱うことを簡単に許してくれない、深い内容と味わいがある。結局年をまたいで、数時間をかけて扱うことにした。そこで、今日は導入編ということで、宮沢賢治についての説明をし、その後で「永訣の朝」を私が朗読した。そして、プリントを使って自分たちで「永訣の朝」の表現技法を中心に考えさせようとしたが、その前に「永訣の朝」全文を書写させた。これは、私自身が「松の針」や「無声慟哭」をワープロで打っていたときに感じたことに基づいている。賢治の詩は歴史的仮名遣いである。そして彼独特の表現、比喩が満ちあふれている。それらのゴツゴツとした味わいは、ワープロで打っていても感じるものだ。まして自分の手で書写したらなおさらであろう。そこで、まず生徒に、宮沢賢治の詩を体で感じてもらおうと思い、最初に全文を書写させた。生徒は真剣に取り組んでくれた。全員が一生懸命に賢治の詩を書いていた。どんな印象を持ったろうか。彼の詩の独特さを実感できたろうか。