画一性vs個別性

 私の職場での机の上は本立て等が高く組まれていて、向かいの同僚の顔が見えない。他にもそのようにして机上に本立て等を高く積み上げている方が何人かおられる。今日、こうした机の状態について改善しよう、との話があった。
 この手の話は非常に苦手である。もちろん私は向かいの方の顔を見たくわけでは断じてない。むしろ、私の向かいの方は同じ国語科であり、いつもお互いに情報交換をしているべき相手だ。それでも相手の顔が見えないまでに本立てを組んでいる理由は、PowerBookを開いたままで机の一番奥に置けるようにしたいからである。
 教務室に常駐している同僚たちの大半は、机上の本立ての下にブロックなどを挟んで本立てを浮かせ、その間にノートパソコンを閉じて潜り込ませられるようにしている。そして、パソコンを使う時にはそれを引き出して、ディスプレイを開くのである。
 私はこの動作が嫌いである。私はPowerBookは常に開いていたい。そして、いつ何時でもキーボードに手を伸ばして作業をしたい。と同時に、PowerBookの前面にスペースを空けて、そこで物書き等の作業ができるようにもしておきたいのである。そのためにはPowerBookを開いたままで机の奥に置けるようにしたい。そうするとその上部の空間に物が置けなくなる。そこで私は本立てを30cmほど浮かせて、その下にPowerBookを開いたままで置くようにしているのである。そのため、机上の本立ての位置が高くなる。そこに本を立てる。さらに、その上に未処理の書類等を置く。かくして机の上の物の高度は次第次第に高くなっていくのである。しかし、このレイアウトは私にとっては数年来試してついにたどり着いた完成形である。私にとって自分なりに使いやすい、カスタマイズの極致なのだ。
 これを、ただ物を片づけましょう、という美辞麗句だけで片づけられてしまってはかなわない。こうした言い分が一般的には正統性があるがゆえに、個人的特殊性を声高に主張するのは難しいのだが、本当はそうした個別性を認めるところに組織の円滑な運用があるのではないだろうか。
 外資系企業等の机のレイアウトがうらやましいなぁ。同僚との共同作業は確保しつつ、個別性を意識できるようなレイアウトになっている。有機的な組織とはかくあるべきだと思うのだが。画一性だけが組織の効率を上げるのではない。