3日間の出来事

 お久しぶりです。戻ってきました。というのは嘘で、実はここ数日、blogに書き込めなくなっていました。
 「はてなダイアリー」というサービスはきわめて優秀なのですが、時々、blogの書き込みができなくなります。いつの間にかログオフ状態になり、再度ログインしても変わらないのです。これはいったい何故? safari特有の問題なのでしょうか?

9月22日

 現代文は9組の授業。この1時間で試験前最後なので、配布したプリント(主観と対象の不一致のパターンを各段落からまとめるもの)の解答を配り、それの解説をした。これを一から説明し出すと、とうてい1時間では説明しきれないことは4組の授業で証明済みなので、今回は最初から解答例を配り、それを説明するというスタイルにした。そして、説明を早めに切り上げ、文章の要約をさせることにした。しかし、実際始めてみると説明にやたら時間がかかり、要約をさせるのにはたったの5分間くらいしか残してやれなかった。うーむ、残念である。


 古典は7組と6組の授業。7組は第2段落と第3段落の口語訳を淡々と進める。6組は試験前最後なので、全部を口語訳し終わり、生徒からの質問を若干受ける。淡々と進んでいく。

授業研究会

 この日は定例の授業研究会が行われた。今回も7月と同じく宴会形式(?)で行われ、食事をしながら話題提供者が持ってきた実践についてさまざまに意見を言い合う会となった。私も古典の授業における逆転展開の授業展開とライティング・ワークショップについて話題提供した。主催者の片桐さんからは「こころ」の授業の実践について報告された。グループで朗読会をすることを授業の目標にするのだという。なるほどね。朗読をするにあたっては、当然内容を解釈しなければならないからね。演劇を学習の方法とするという平田オリザさんの実践にも似たものだな。

9月23日

 この日は私の通う集会の方の結婚式があった。新潟の集会では実に久しぶりの結婚式である。お二人とも私がよく知っている方々で、大変素晴らしい組み合わせである。
 私は結婚式で「結婚の学び」を担当した。結婚について聖書はどのように教えているか、紹介するのである。結婚とは神様が定められた聖なるものである。厳粛に、また幸いに行わなければならない。ゆめゆめ軽んじてはならないのだ。
 ともあれ、結婚式も祝会もとても素晴らしい中で終わり、新しいクリスチャン・ホームが誕生した。本当に喜ばしいことである。

9月24日

 古典は7組の授業。源氏物語の第4段落を淡々と口語訳する。生徒に指名して口語訳をさせ、私が補足説明をするのだが、一人、全く訳そうとしない生徒がいたなぁ。時間の関係であまり深く追求できなかったが、こうした態度はいかんなぁ。訳せなくてもいいのだよ、訳そうとする姿勢が大事なのだよ。そうすれば古文の口語訳なんて半分以上は終わってしまう。授業に全く参加しようとしないわけで、こうした態度は見過ごせないなぁ。うーむ、深く突っ込めなかったのが残念である。
 現代文は4組と3組の授業。4組は大方の説明を終えているので、補足説明やら解答例の修正やらをして、残りは要約文を書かせる。それでも正味15分くらいしか時間を与えられなかったね。一人だけ終了後に提出してくれたが、後は試験後である。最後に要約文を書くことはとても大切だと考えている。生徒は要約を書くことが苦手だ。ならばなおのこと、要約を書く機会が執拗に与えられるべきである。要約は文章読解の基本中の基本だ。これができなくて何とする。
 3組は一昨日の9組と同じく、解答例のプリントを配って説明をする。ただ、9組では単にプリントに書いてあることを口頭で説明したせいか、居眠りをし出す生徒が続出した。そこで今回は、プリントで示してある主観と対象の不一致が書かれている本文の箇所を、教科書で傍線を引かせることとした。私が一つ一つ確認していき、教科書に傍線を引かせた。さらに、難解箇所や話の流れをまとめている箇所等にも波線を引かせた。こうすることで少しでも彼らの理解を深めようとしたのだ。幸い今回は、居眠りする者はいなかったようだ。
 その後、残り3分間しかなかったが、要約文の課題を出して終わる。
 さて、今回の評論は私の20数年来の評論の授業のやり方とは全く違う方法で臨んだ。全体の流れをつかませることを全てとし、細部の意味合いは全てプリントで済ませた。さて、生徒の理解度はどのように違うのだろうか。もちろん、本校の生徒は自分で勉強するので、配布したプリントで自分なりに理解してくることを期待している。したがって、明日のテストではそれほどひどい点数にはならないだろう。願わくば、普段よりも理解が深まっていて、応用が利くようになっていて欲しいものだ。期待半分、心配半分である。