源氏物語の授業

 6組での授業。まず古典単語テストを行い、その後、今日も『学び合い』による時間とする。
 今日は、学習に入る前に少し「語り」をした。このような形での時間を持つ意義について、少しだが話をした。というのは、前回このクラスで学び合いをさせた時、机に突っ伏して眠るそぶりをする者がいたからだ。
 今回は次のような話をした。

  1. この授業の目的はクラス全員がお互いに教え合って、学習を深めることである。
  2. 私が授業をするという形の方が私にとってはずっと楽だ。そうしないことは、私にとってはかえって大変なことなのだ(サボっているなどと思わないで欲しい)。
  3. 指名して訳させ、文法事項を確認するだけでは生徒が受け身になってしまう。それでは頭を通過するだけで、本当の学びになっていない。
  4. 自分自身が学び、自分自身が理解していくために、友人同士で大いに教え合い、学び合って欲しい。

 こうした話をしたせいか、今日の時間は生徒の動きが活発だった。前回よりも遙かに多くの生徒が席を立ち、友人同士と机を合わせたりして話し合いをしていた。中には床に座り込んで作品の内容を検討していたグループもいた。もちろん、一人で黙々と作業に取り組んでいるものもいる。私はグループの組み方については何も指示していない。ただ、「何をしてもいい。何を見てもいい。ただし、私には質問禁止である。」ということだけである。
 学び合っている彼らの姿は見ているだけでも気持ちのいいものだ。50分ほどの時間を彼らに与えたが、本当に見ていてちっとも飽きなかった。実に彼らは真剣に、楽しそうに、源氏物語の冒頭部分の解釈を友人同士で話し合っていた。解釈というのは、本来はこうした形でしか起こりえないものだし、こうした形を保証してこそ豊かな解釈が導き出せるのだろうと思う。
 中には、「えーっ、光源氏ってもう生まれていたの?」「うん、だってここに……」「えーっ、初めて気づいた」という嬉しいんだか悲しいんだか分からない会話も漏れ聞こえてきた。でも、この「えーっ、初めて気づいた」という気づきはとても大切なものだと思う。教師という権威ある存在から教えられることではなく、友人同士の、同等の立場同士での会話の中で生まれる気づきは、おそらく計り知れない定着度を有するだろう。一種の「アハ!体験」である。この体験は人間の脳からはそう簡単に消えはしない。
 ただ、この時間の目標の一つであった、前の時間に机に突っ伏していた生徒を起こさせる、ということはかなわなかった。今回もこの生徒は一人で作業をしていたかと思うと、しばらくして机に突っ伏していた。今回はどうやら完全に居眠りしていたらしい。
 本当の『学び合い』なら、この生徒の存在もクラス全員の問題=課題として取り上げるんでしょうね。