汝、日に汝が身を三省すべし

 まったく、軽率なことは慎むべきである。昨日に続き今日も、軽率なことをしでかしてしまった。
 昨日の日記の記述で、漢文の授業について書いた。格言の中の「歳月不待人」の出典を黒板に大きく板書し、生徒に書写させたのだ。ところが、私が書いたのは陶潜の雑詩の終わり4行のみ。それを私はあたかも雑詩の全てであるかのように書いてしまった。いや、実際私はそれで全てだと思い込んでいたのだ。しかし、今朝になってこの詩について少し調べたところ、雑詩はもっと長い詩であることが分かった。うーん、無知とはいえ、あまりに無知である。しかもそれを得意綽々と生徒にひけらかすとは。生半可な知識で教壇に立ってはいかんなぁ。正直言うと、これは教科書の指導書の記述をそのまま鵜呑みにしてしまった結果である。やはり、指導書を鵜呑みにしちゃぁいかんよ。(ということで、昨日の日記は修正してあります。悪しからず)
 ということを反省した矢先、今日の9組での古典の授業で、生徒にやらせた問題の中に杜甫の「春望」の一節と他の詩の一節が並べて表記されていたのを、私は勝手にどちらも「春望」の句だと生徒に紹介し、おまけにその2つを使って「春望」の始めを暗唱して見せた。そうしたら、生徒の一人が「先生、それは違います」と指摘してくれた。うーん、うーん。さすがは我が生徒である。「春望」くらいは中学校で習うかね。そうでなくても、指摘してくれた生徒に脱帽。このクラスでは私が間違ったり、知識があやふやだったりして、授業中に立ち往生することが時々ある。とてもやりやすい雰囲気のクラスなのだけれどね。それに図に乗って、つい甘えてしまうのだろうか。
 その失態を演じた後、さらに格言の学習を進めていったところ、「論語」の「吾日三省吾身」が出てきたもんだ。当然、曾子が自省した3つの点について説明するじゃありませんか。その3番目が「伝不習乎」、つまり、「生かじりの知識で教えなかったか」であるから、もう赤面の連続である。いやはや、今日の授業は自分自身にとって厳しかったなぁ。
 まあ、教師は十分すぎるほど勉強をしてきて、その10分の1で勝負する、と言われるけれど、やはり勉強しなくちゃなぁ。まったく今日は自省・反省・猛省の連続であった。