授業を創る楽しみ

 今日は1コマのみ。7組での現代文の授業であった。
 この授業は、羅生門の展開部について読み進んでいる。下人が老婆の行為を見て、「あらゆる悪に対する反感」を抱く場面である。ここでは、下人の悪に対する反感が場当たり的なもので、論理性に基づいていないことを気づかせるのが重要である。
 そこで、今回は1つの表現に注目させている。「この雨の夜に、この羅生門の上で」という表現である。これが本文には2カ所出て来る。1カ所目は下人が羅生門の上に誰かいることに気づく場面である。この時、「この雨の夜に、この羅生門の上で」という表現は、この時空間が異常なものであることを示している。2カ所目は下人が老婆の行為を見て、「許されざる悪」であると断定する場面だ。したがってこの断定は、異常な時空間だからこそ可能だったのだ、ということになる。
 授業ではその2つの場面を指摘して、下人の気持ちをまずは考えさせ、生徒の意見を聞く。その後で2カ所に共通するこの表現を指摘して、そこから読み取れる下人の気持ちの特徴について説明している。
 ところが今日の授業は、前回この表現を指摘していたにもかかわらず、私がそのことを忘れてしまっていた。そして、この表現の確認をしないままに、次の問題へ進んでしまった。次の問題とは、下人の悪を憎む心が「松の木切れのように激しく燃えている」という箇所である。ここから、「松の木切れ」という持続性のない炎を例えに使うことにより、下人の正義感が持続性のないものであることを確認するのである。
 でも、その確認を生徒にしている間に、例の表現について説明していないことに気づき、この問題の説明をした後で補足して説明した。しかし、どちらの問題も、下人の正義感が論理的なものではなく、感情的・一時的であることを指摘する内容だったので、無事説明は完結した。


 授業というものは面白いものだ。こうして進め方はこちらの予定通りではなかったけれど、結果的に予定の内容を伝えることができた。それも、その場その場での工夫と、生徒の発言を用いて授業を展開していくことにより、授業が予定した方向に進んでいく。授業を創り上げていく面白さである。この場合は、教室内での授業づくりである。
 まさに、一回こっきりの、生徒との真剣勝負である。それも、『羅生門』という教材だからこそ、こうした授業が展開できるのだろう。すでに6時間くらいかけているが、もう数時間かかる。しかし、非常に中身の濃い授業ができている。
 問題は、生徒自身がそれを感じているかだな。生徒が自分の頭で考えているか、だ。まあ、自分で考えた答えをさらに越える説明がなされることによって、目が開かれるような思いは感じてくれているのではないか、と期待しているのだけれど。