「高瀬舟」最終レポート1

高瀬舟」の読み取りを終えた後、生徒に「お奉行様」の立場を取らせて、喜助への判決文を書くレポートを課している。初発の感想では喜助への同情論が多かったので、それとは逆の立場で立論させる訓練である。月曜と火曜に1つずつ授業をして、今日が提出の締切としていた。無理な日程かなと思っていたが、各クラスとも10数名が提出してくれた。
その中で、いいなと思った作品を1つ挙げる。

判決。喜助に対しては、遠島を申しつける。
喜助は弟を安楽死させたとも解釈できる。しかし、生命を尊厳する立場に立てば、どのような理由であっても死期を早めることは許されないため、喜助の行動を認めない。かの医師シュバイツァーは、「倫理の基本原理はすべての生きんとする意志に、自己の生に対すると同様な生命への畏敬をもたらそうとする内的要求を体験することにある」と述べている。つまり、生を維持し、促進するのは善であり、生を破壊し、阻害するのは悪であるということである。よって、この観点からみても、喜助の行動を認めることはできない。
さて、喜助は本来、弟殺しであるため死罪となるのが適当である。しかし今回の場合、命を奪おうとしたのは弟本人であり、喜助は医者を呼んで助けようとしている。だが、医者がすぐに来たとしても、弟の意志・傷の深さから考えて弟の延命の可能性は皆無であったと言える。よって喜助は生命を畏敬しているとは言えても弟の死に絶大な影響を与えたとは言えない。故にさらに軽い罪も考えられるが、法は世の混乱を防ぐためにも客観的に存在しなければならない。以上のことを踏まえると、軽罪では済ませられないが死罪には値しないため、遠島とする。
最後に、喜助の行動は罰すべきものではあるが、同情すべき点は多々ある。遠島に処すが、その正しい心は忘れないでもらいたい。

「生命の尊厳」という抽象的な根拠を挙げているが、それをシュバイツァーの言葉を引用することによって補強している。なかなか良い内容である。後半は表現にやや稚拙なところがあるが。


今回は、喜助への有罪判決の根拠として安楽死のみを扱わせるような授業展開にしてしまった。そうすると、「高瀬舟」を読むことへの制約をかけることになる。反省事項である。もう1クラス残っているが、そちらではその制約を外してみよう。