読み聞かせで夢見ること

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 2年生は2週間の幼稚園実習を(ほぼ)終え、今週から授業再開である。私の担当する言葉指導法Ⅱも2週間ぶりである。今日は「読み聞かせの実践(2)」と題して、学生に読み聞かせを行わせ、それを相互評価する、という授業を行った。学生には、先日行った読み聞かせの実践で扱った方法ではない方法を選ばせ、その読み聞かせを3〜4人のグループ内で互いに演じ、相互評価させた。

 学生は実に和気藹々と読み聞かせをしてくれた。実習を経て、だいぶ読み聞かせが板についてきた感じである。実習中も読み聞かせをたくさんしてきたのだろう、自信が見える。ただ、相変わらず考え聞かせは苦手っぽいし、いっしょ読みは一斉音読が中心になってしまう。まあ、それでもいいのかもしれない。数ヶ月前はこうした読み聞かせ方を知らなかった彼らである。それが、今日彼らが示したようなところにまで辿り着いた。それを素直に喜ぶべきなのかもしれない。

 学生たちに、実習で新しい読み聞かせ方をさせてもらえるよう担当の先生と相談して欲しい、と頼んでおいた。彼らはそれを実行してくれたらしく、中には2つの読み聞かせ方を試して実習先の先生から「勉強になった」と言われた、と報告してくれた者もいる。しかし一方では、担当の先生に相談したが「それは園の方針と合わないからやめてくれ」と言われた、という者もいる。残念なことである。もっとも、この読み聞かせ方を本格的に取り入れたのは昨年度からだ。まだまだ周知させるには乏しい実践数だし、吉田新一郎さんの本は出たけれど読んでいる人はまた少ないだろう。読み聞かせに対する現場の意識が変わるのは一体いつのことになるのやら、遠い遠い話である。

 それでも、昨年度の卒業生が133名。今年度は127名が卒業予定である。彼らの大半は幼児教育の現場に出て行く。その彼らが少しずつ読み聞かせの新たな方法を試し始め、それが少しずつ浸透していけば、ある時にはブレイクスルーが起こるかもしれない。私も教員免許状更新講習で読み聞かせ方法の紹介をしているが、今年は2回の機会をいただいている。これらの活動がある時、実を結ぶことを夢見ずにはいられない。そうなった時、新潟県は読み聞かせの最先端を走る県になっているだろう。

 もしもそうなったら、私という幼児教育界の異端者も、レーゾンデートルを見いだせるのかもしれないな。

読み聞かせの方法を教え終えて

https://www.youtube.com/watch?v=fJMwhxVjyh4
メム・フォックスの読み聞かせ

 先週の言葉指導法Ⅱの授業で、3つの読み聞かせ方法をほぼ教え終えた。通常の読み聞かせ、考え聞かせ、対話読み聞かせを比較するために変則的な進度計画だったが、とりあえず3つのクラスにいっしょ読みを含めた読み聞かせ方を全て伝えることができた。今週、学生たちは幼稚園実習に行っている。その直前ではあったが、読み聞かせ方法を伝えることで、少しは実習での読み聞かせを行うにあたり、学生たちにヒントや考えさせる材料を提供できたのではないかと自負している。

 学生たちのふりかえりをずっと読んでいた。いっしょ読みを紹介したクラスでは、「子どもと一緒に声を出して読むことで、絵本の世界に引き込まれやすくなるし、楽しく読めるようになる」といった感想を持った学生が多かった。いっしょ読みの特徴をよく捉えた感想だと思う。

 また、日本と欧米の読み聞かせの比較を紹介したクラスでは、「欧米の読み聞かせ方(メム・フォックスの読み聞かせ)は演じすぎず、声色や抑揚が使われ、音楽のように読んでいて、絵本の世界に入りやすく、楽しんで聞ける」という感想を書いた学生が多かった。これまた特徴をしっかりとつかんでいて、良い感想だと思った。総じて、彼らは個々の読み聞かせについてよく反応してくれ、それぞれの長所をよくつかんでいた。考え聞かせが相変わらず難しいという感触を多くの学生が訴えており、「考え聞かせをいかにわかりやすく習得させるか」という、私の次の課題が明確になった。これもまた嬉しいことである。

 と同時に、危惧もまた覚える。いっしょ読みを紹介したクラスでは「この読み方が自分には一番合っていると思う」という感想が出ていた。まだ彼らは、3つの読み聞かせ方法のどれが自分には合い、また合わないか、という視点でしか捉えていないと思われる。私が3つの読み聞かせ方法を紹介するのは2つの理由がある。

  1. 通常の読み聞かせ方だけではない、様々な読み聞かせ方があることを知ってほしい
  2. その様々な読み聞かせ方の特徴を掴み、目の前の子どもたちの「言語援用能力」を伸ばすために、場面や自己の計画・目的に沿った読み聞かせ方を選択できるようになってほしい

 先週までの授業で、1番目の目的はほぼ達成できたと言っていいだろう。しかし、2番目の目的はまだまだ達成できていない。これを達成するのはとても難しいことだ。

 確かに、授業の内容が3つの読み聞かせ方の紹介であったため、学生たちの意識が方法にとらわれてしまうのは仕方のないところである。しかし、折につけて「大切なのは読み聞かせをする目的である。子どもたちのどんなことを伸ばすことを目的とし、その目的の達成に一番ふさわしい方法を選択できるようになろう」と言い続けてきた。その甲斐あってか、日欧比較のクラスでは「子どもたちの年齢や状況にあった読み聞かせをしていきたい」という感想を書いた学生が数人いた。私の願いとしては、こうした感想を持つ学生が受講者の大半を占めてほしいことだ。そうでなければ、3つの読み聞かせの方法も単に珍しいやり方、という理解だけ終わってしまう。あるいは、自分はこちらが得意で、そちらは不得意だ、という自分を中心とした方法の選択になってしまう。これは私の本意とするところではない。

 読み聞かせについては、実習明けにあと2回を予定している。1回は紹介した読み聞かせ方から1つを選び、友人たちと相互に実演させる。残り1回は3つの読み聞かせ方についてレポートを書かせる。このレポート書きの際に、もう一度「目的を重視し、それに合った方法を選択する」ことの重要性について、声を大きくして訴えようと思う。それが届かなければ、私の授業は失敗である。

「Trash」という思想

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 パソコンを使っていると、「ゴミ箱」があったおかげで助かったという経験がままある。

 私がパソコンを使い始めた時、世はMS-DOSが隆盛を誇っていた頃だった。MS-DOSはコマンド型のOSで、コンピュータにコマンドを打ち込むことで様々な動作をさせることが可能だった。バッチ・ファイルを自分で作って、パソコン起動時の動作を様々に指定できるのが楽しかった。その一方で、ファイルを削除するコマンド「delete」はある意味恐ろしいものだ。何しろ、このコマンドを打ち込んで削除したファイルは、まず復旧させることができなかったからだ。いや、詳しい人なら削除直後の復旧はできただろう。しかし、私のようなレベルのユーザーでは、一度削除してしまったファイルを復旧させることはまず無理だ。苦労して作成した一太郎の文書ファイルを間違って削除してしまい、蒼ざめて最初からやり直したことは一度や二度ではない。その度に我が身を呪ったものだった。

 しかし、次に手に入れたパソコンはMacintoshだった。これはGUIベースのOSで、要するに今日のパソコンと同じ設計思想のものだ。そして、何より素晴らしかったのが、画面の右下隅に「Trash(ゴミ箱)」があることだ。あるファイルをドラッグしてこのゴミ箱に重ねれば、それが「削除」というコマンドを実行したことになる。直感的で、とてもわかりやすい。しかし、その驚くべき思想はその後にある。「ゴミ箱」にファイルを入れただけでは、まだ本当に削除したことにはならない。ゴミ箱をダブルクリックして、「ゴミ箱を空にする」というコマンドを実行しなければ、まだ捨てたファイルはゴミ箱の中にとどまっているのだ。この機能のおかげで、これまた何度助かったことだろう。「しまった! 捨ててしまった!」と思ったファイルがまだちゃんとゴミ箱の中に残っている。これを取り出すことで、引き続き作業を行うことができる。

 もちろん、今となっては当たり前のことだろう。しかし、改めてこの「Trash」という存在を考えてみると、ここには「人間は間違うものである」という人間観が基本になっていることがわかる。Macintoshは、そしてMacOSは、人間は間違うものであり、そのためのバックアップ体制を整える、という思想に裏付けられたものである。この人間観は、一見すると情けないもののようだが、実は人間の本質をよく突いている。聖書的、と言っていいだろうか。

 そして、この「Trash」という思想は教育にも必要なものではなかろうか。人間は間違うものである。それを基本にして教育は行われているだろうか? 授業は行われているだろうか? 教師が話したことは、学習者はすべて頭の中に入っている、という前提で授業や教育活動が行われているように思う。「それはこの前言っただろう!?」は教師のよく言うフレーズである。しかし、人間はテープレコーダーではない。一度聞いたことを全て覚えていられる人間などいやしない。自分がそうだとよく知っているはずなのに、何故か教壇に立つと、教師は学習者を人間ではなく、自分が昨日言ったことを記録している「機械」として扱っているようなことがある。

 目の前に座っている学習者は自分と同じ人間なのだ。同じ、間違える可能性のあるものなのだ。それを前提にして教育や授業を行うことが、しかし意外にも難しい。自戒すべきことである。

『The Reading Zone』

The Reading Zone: How to Help Kids Become Passionate, Skilled, Habitual, Critical Readers

The Reading Zone: How to Help Kids Become Passionate, Skilled, Habitual, Critical Readers

 金曜3限の教養Ⅰ(国語)ではリーディング・ワークショップを実践中である。今は学生にノンフィクションを読ませている。ジャンルをノンフィクションに限らせているだけであり、あとは何を読むのも自由にしている。それでも学生たちは選書に悩んでいる。どんなものが自分の興味を引くものなのか、なかなか探し出せないでいた。そうして始まった授業も2ヶ月を過ぎ、手探りで選書をしてきた彼らも、自分が興味を持って読み進められる本をだいぶ見つけることができてきたようだ。もちろん、まだそれが難しい学生もいる。そうした学生に配慮しつつ、今後の授業を進めていきたい。

 さて、今週あたりから本格的な個別自由読書が始まった。これまでは幼稚園実習にクラスごとに出ていたせいで、3週間ほど全員が揃わずにいた。今日はその実習も終わり、久しぶりに全員が揃っている。そうなると心配になるのが読書中の私語である。事実、先週の授業では読書中に少し私語が目立った。

 そこで、今日のミニ・レッスンの終わりに「リーディング・ゾーン」について話をする。読書におけるリーディング・ゾーンの重要性を伝え、私語をしないよう学生たちに念を押す。その流れで、自分自身もリーディング・ゾーンについてしっかりと勉強したくなってきた。

 『イン・ザ・ミドル』や『リーディング・ワークショップ』を紐解いてみるのだが、今ひとつリーディング・ゾーンについてしっかりと情報を得るには物足りなそうだ。そこで、これは本家本元に手を出さなければならないかな、と思い、アトウェルの『The Reading Zone』を少し読み始めてみた。私の英語力は本当に低レベルのもので、こんな洋書を読み進められるようなものではない。しかし、ともかく読み進めてみると、何となく雰囲気がわかるような気がするものだ。私の洋書の読み方として、分からない英単語について辞書をいちいち引くのではなく、とにかく乱暴でもガシガシと読み進める、というものがある。無謀なことかもしれないが、一時期、この方法を毎朝やっていたおかげで、大学院の入試に出た「英文の資料を読んで小論文を書く」という問題にはあまり苦労しなかった。その経験に気を良くして、今回もまずはガシガシ読んでみようかな、と思う。三日坊主になったら、ごめんなさい……。

本学も「探究」をベースにした教育をしよう

Appleのデジタル教育

Appleのデジタル教育

「学校」をつくり直す (河出新書)

「学校」をつくり直す (河出新書)

 最近の読書での収穫はこの2冊である。どちらもこれからの教育について考えるための基礎を作るのに良い。これからの教育は、この2冊の提言を避けては通れないだろう。

 同時に、この2冊の提言が驚くほど似ていることも特筆すべきことだ。「学校」をつくり直すは、「探究」を基盤とした教育をすべきだと訴えている。これはAppleのデジタル教育でも同様のことが述べられているのだ。ジョン・カウチの実践の方が時間的には早いことになろう。それでも、これが今日の日本で同時期に発売された本に述べられているというのは、時代がそれを志向すべき状況になっているのだろうか。

 この「探究」をベースにした教育は、今後、学校教育で主流になっていくだろう。そして、そこで教える教員を養成する学校こそが、いち早くこの「探究」をベースとした教育を実践すべきだ。そうしてこそ、この教育を実践できる教員を増やすことにつながる。どうしても我々は自分が経験したことをベースとして自分の仕事に取り組みがちである。だからこそ、教員養成校での経験を「探究」をベースにしたものとすることで、そこを出た教師は自分の実践を積み重ねることができる。

 先日、本学でも「学習成果可視化の取組みと実際」と題した報告会が行われた。研修会に参加した教員によって4つの大学の取組みが報告された。その結論として、以下の2つが挙げられていた。

  • 学習成果の可視化は……一目で可視化できる資料を発行する方向性である
  • 学習成果可視化は、卒論・卒業研究を最終的な目標とするためにカリキュラムの変更を伴うが、同時に実際的な学習スキルを補完するために、ラーニングコモンズ・学習支援をてこ入れする必要性がある

 1つ目の資料の整備は事務的な問題として、2つ目は今後の本学が目指すべき姿であろう。少なくとも本学は幼稚園教諭・保育士・看護師・介護福祉士臨床心理士などを養成する学部・学科を持つ大学・短大である。上記の理由から、その学部・学科はもちろんのこと、一般的な資格取得を目指す学科であっても、「探究」をベースにした教育を行うことによって学生の学修を高めることが必要だ。
 そうであるならば、「探究」をベースにした教育に転換するために、カリキュラムの見直しが必要である。また、それを支援する体制も整えるべきである。この2つの方向性を本学のとるべきあり方として、小さい声ながら提言したい。

全国大学国語教育学会茨城大会で発表してきた

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茨城大学の図書館外観
 6月1日(土)・2日(日)と第136回全国大学国語教育学会茨城大会が茨城大学を会場に行われた。私は2日(日)の午後に自由研究発表があったので、参加し発表してきた。

 午前中は課題研究発表が行われた。「国語科教育を問い直す③:教師・教育行政・研究者それぞれの立場から」と題して、特に「書くこと」の教育を巡って話題が提供され、議論された。学会では一昨年あたりに大規模な実態調査を行っている。その結果を踏まえ、3人がそれぞれの立場からの提言をした。教師の立場から話されたのは澤田英輔先生である。澤田先生と言えば、『イン・ザ・ミドル』の翻訳者の一人として、またライティング・ワークショップ、リーディング・ワークショップの実践者として今や有名になった。さらに今年度は、今まで勤めていた筑波大学附属駒場中学校・高等学校を退職し、軽井沢風越学園設立準備財団に異動して、風越学園という魅力的で注目すべき学校の設立に奮闘している。澤田先生の提言はご自身の「あすこま!」ブログ等で発信している内容をなぞったものだったが、ブログの愛読者である私にとっても、改めてその内容をおさらいできる良い機会だった。
 教育行政の立場からは大滝一登氏、研究者の立場からは冨安慎吾氏が提言していた。無知をさらけ出すのだが、文科省の大滝氏の提言はまさに教育行政の立場からのもので、この方面についての私の理解の朝さを露呈するものとなった。島根大学の冨安氏の提言は「書くこと」の指導についての理論的な提言の面があり、なかなか興味深かった。
 この課題研究発表では新潟大学の足立幸子先生と一緒に聞いていた。足立先生とは発表の前に様々に情報交換ができ、これまた嬉しいことだった。また、澤田先生(澤田さんと呼ぶのが普段通りなのだが)とは前夜に夕食を一緒にすることができ、これも嬉しい時だった。
 それにしても、発表が終わった後、澤田さんのところにたくさんの研究者が名刺交換に来ていたのは印象的だったなぁ。澤田さんの活動が研究者にも認知されているのは、とても嬉しい限りである。

 午後は自由研究発表である。私は「読み聞かせ方法の違いが学生の読み聞かせ観に与える影響」と題して発表した。通常の読み聞かせ、考え聞かせ、対話読み聞かせを練習し実習した学生間で、読み聞かせに対する考え方が変化するかどうかを実験した研究である。
こうした学会発表の醍醐味は、発表が終わった後の質疑応答である。10分間という短い時間だったが、4人の方から質問を受け、その内容は大いに参考になった。ある方からは考え聞かせが他の方法とそもそも異質なものであることを指摘された。ある方からは読み聞かせを聞く子どもの脳の状況が穏やかになるが、考え聞かせによって読み手がどんな考えを言うのかを思うとその脳の状態が乱されるのではないかと言う指摘を受けた。ある方は2つの方法が科学絵本でも使えるかどうかを質問された。最後には私の研究計画において、学生同士の相互評価が今回の実験結果に影響した可能性を指摘された。それぞれにとても刺激的で、参考になるものだった。
 最近、柔軟な頭の働きができなくなってきていることを自覚するのだが、学会発表はその意味で自分の脳の柔軟さに挑戦するような負荷のかかることである。しかし、この質疑応答の面白さはやめられない。優秀な方々からの様々な意見をもらうことで、自分の頭がリフレッシュされる。今回も非常に楽しい経験となった。

CBLという学び方

Appleのデジタル教育

Appleのデジタル教育

 今読んでいるのがこの本。もう、すこぶる面白い! ただし、日本語版のタイトルはあまりにナンセンスである。原題は「Rewiring Education(教育のつなぎ直し)」。副題は「How Technology Can Unlock Every Student's Potential(どのようにしてテクノロジーはすべての生徒の潜在能力を解放できるか)」。絶対こちらの方が本の内容を明確に表している。確かに著者はAppleの教育部門初代バイスプレジデントであったジョン・カウチであり、本にはApple社が教育にどのように関わっているかが書かれている。しかし、それは本題ではない。もっとこれは教育の一般的な話題に関わるものだ。このタイトルだけで判断すると、工学系の本かと思われる心配がある。タイトルはもう少し考えてつけるべきだなぁ。まあ、私がこの本を手に取った理由はタイトルに「Apple」と「教育」とあったからなのだけれど……。

 この本の中でCBLという学び方が紹介されている。Challenge-Based Learning(チャレンジ設定型学習)の略である。世にはPBL(Project-Based Learning:プロジェクト設定型学習)があるが、このCBLはさらに一歩進んだ学び方だ。  

  • CBLは疑問を発端とする学習モデルだ。個人またはグループで疑問の解明や解消に自らチャレンジすることで、その学習が生徒自身に関係するものとなり、熱心に取り組むようになる。(p158)
  • チャレンジを通じて単なるコンテンツの消費者から脱し、文字、音声、動画など複数の媒体を使ってプロジェクトを完成させたジョディのクラスの生徒のように、CBLの目的は、コンテンツを生みだしたり育てたりできるようになってもらうことにある。(p160)

 まだ今ひとつ全貌が掴みきれていないが、昨年公開されたAppleの「Everyone Can Create」プログラムもこのCBLの考えに沿った教育プログラムであるのだろう。なかなか興味深い。

 確かに、単に問題を解決したり、プロジェクトを達成したりするだけでなく、疑問の解消に自らチャレンジすることで、自分自身の学習に意味をより見いだすことができるだろう。そして、それを表すコンテンツを生み出すことが、また学習を促進するだろう。面白そうな学び方だと思う。

 CBLは、ネットでググると様々な情報を得ることができる。今後、学んでいきたいものだ。
https://cbl.digitalpromise.org