「Trash」という思想

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 パソコンを使っていると、「ゴミ箱」があったおかげで助かったという経験がままある。

 私がパソコンを使い始めた時、世はMS-DOSが隆盛を誇っていた頃だった。MS-DOSはコマンド型のOSで、コンピュータにコマンドを打ち込むことで様々な動作をさせることが可能だった。バッチ・ファイルを自分で作って、パソコン起動時の動作を様々に指定できるのが楽しかった。その一方で、ファイルを削除するコマンド「delete」はある意味恐ろしいものだ。何しろ、このコマンドを打ち込んで削除したファイルは、まず復旧させることができなかったからだ。いや、詳しい人なら削除直後の復旧はできただろう。しかし、私のようなレベルのユーザーでは、一度削除してしまったファイルを復旧させることはまず無理だ。苦労して作成した一太郎の文書ファイルを間違って削除してしまい、蒼ざめて最初からやり直したことは一度や二度ではない。その度に我が身を呪ったものだった。

 しかし、次に手に入れたパソコンはMacintoshだった。これはGUIベースのOSで、要するに今日のパソコンと同じ設計思想のものだ。そして、何より素晴らしかったのが、画面の右下隅に「Trash(ゴミ箱)」があることだ。あるファイルをドラッグしてこのゴミ箱に重ねれば、それが「削除」というコマンドを実行したことになる。直感的で、とてもわかりやすい。しかし、その驚くべき思想はその後にある。「ゴミ箱」にファイルを入れただけでは、まだ本当に削除したことにはならない。ゴミ箱をダブルクリックして、「ゴミ箱を空にする」というコマンドを実行しなければ、まだ捨てたファイルはゴミ箱の中にとどまっているのだ。この機能のおかげで、これまた何度助かったことだろう。「しまった! 捨ててしまった!」と思ったファイルがまだちゃんとゴミ箱の中に残っている。これを取り出すことで、引き続き作業を行うことができる。

 もちろん、今となっては当たり前のことだろう。しかし、改めてこの「Trash」という存在を考えてみると、ここには「人間は間違うものである」という人間観が基本になっていることがわかる。Macintoshは、そしてMacOSは、人間は間違うものであり、そのためのバックアップ体制を整える、という思想に裏付けられたものである。この人間観は、一見すると情けないもののようだが、実は人間の本質をよく突いている。聖書的、と言っていいだろうか。

 そして、この「Trash」という思想は教育にも必要なものではなかろうか。人間は間違うものである。それを基本にして教育は行われているだろうか? 授業は行われているだろうか? 教師が話したことは、学習者はすべて頭の中に入っている、という前提で授業や教育活動が行われているように思う。「それはこの前言っただろう!?」は教師のよく言うフレーズである。しかし、人間はテープレコーダーではない。一度聞いたことを全て覚えていられる人間などいやしない。自分がそうだとよく知っているはずなのに、何故か教壇に立つと、教師は学習者を人間ではなく、自分が昨日言ったことを記録している「機械」として扱っているようなことがある。

 目の前に座っている学習者は自分と同じ人間なのだ。同じ、間違える可能性のあるものなのだ。それを前提にして教育や授業を行うことが、しかし意外にも難しい。自戒すべきことである。

『The Reading Zone』

The Reading Zone: How to Help Kids Become Passionate, Skilled, Habitual, Critical Readers

The Reading Zone: How to Help Kids Become Passionate, Skilled, Habitual, Critical Readers

 金曜3限の教養Ⅰ(国語)ではリーディング・ワークショップを実践中である。今は学生にノンフィクションを読ませている。ジャンルをノンフィクションに限らせているだけであり、あとは何を読むのも自由にしている。それでも学生たちは選書に悩んでいる。どんなものが自分の興味を引くものなのか、なかなか探し出せないでいた。そうして始まった授業も2ヶ月を過ぎ、手探りで選書をしてきた彼らも、自分が興味を持って読み進められる本をだいぶ見つけることができてきたようだ。もちろん、まだそれが難しい学生もいる。そうした学生に配慮しつつ、今後の授業を進めていきたい。

 さて、今週あたりから本格的な個別自由読書が始まった。これまでは幼稚園実習にクラスごとに出ていたせいで、3週間ほど全員が揃わずにいた。今日はその実習も終わり、久しぶりに全員が揃っている。そうなると心配になるのが読書中の私語である。事実、先週の授業では読書中に少し私語が目立った。

 そこで、今日のミニ・レッスンの終わりに「リーディング・ゾーン」について話をする。読書におけるリーディング・ゾーンの重要性を伝え、私語をしないよう学生たちに念を押す。その流れで、自分自身もリーディング・ゾーンについてしっかりと勉強したくなってきた。

 『イン・ザ・ミドル』や『リーディング・ワークショップ』を紐解いてみるのだが、今ひとつリーディング・ゾーンについてしっかりと情報を得るには物足りなそうだ。そこで、これは本家本元に手を出さなければならないかな、と思い、アトウェルの『The Reading Zone』を少し読み始めてみた。私の英語力は本当に低レベルのもので、こんな洋書を読み進められるようなものではない。しかし、ともかく読み進めてみると、何となく雰囲気がわかるような気がするものだ。私の洋書の読み方として、分からない英単語について辞書をいちいち引くのではなく、とにかく乱暴でもガシガシと読み進める、というものがある。無謀なことかもしれないが、一時期、この方法を毎朝やっていたおかげで、大学院の入試に出た「英文の資料を読んで小論文を書く」という問題にはあまり苦労しなかった。その経験に気を良くして、今回もまずはガシガシ読んでみようかな、と思う。三日坊主になったら、ごめんなさい……。

本学も「探究」をベースにした教育をしよう

Appleのデジタル教育

Appleのデジタル教育

「学校」をつくり直す (河出新書)

「学校」をつくり直す (河出新書)

 最近の読書での収穫はこの2冊である。どちらもこれからの教育について考えるための基礎を作るのに良い。これからの教育は、この2冊の提言を避けては通れないだろう。

 同時に、この2冊の提言が驚くほど似ていることも特筆すべきことだ。「学校」をつくり直すは、「探究」を基盤とした教育をすべきだと訴えている。これはAppleのデジタル教育でも同様のことが述べられているのだ。ジョン・カウチの実践の方が時間的には早いことになろう。それでも、これが今日の日本で同時期に発売された本に述べられているというのは、時代がそれを志向すべき状況になっているのだろうか。

 この「探究」をベースにした教育は、今後、学校教育で主流になっていくだろう。そして、そこで教える教員を養成する学校こそが、いち早くこの「探究」をベースとした教育を実践すべきだ。そうしてこそ、この教育を実践できる教員を増やすことにつながる。どうしても我々は自分が経験したことをベースとして自分の仕事に取り組みがちである。だからこそ、教員養成校での経験を「探究」をベースにしたものとすることで、そこを出た教師は自分の実践を積み重ねることができる。

 先日、本学でも「学習成果可視化の取組みと実際」と題した報告会が行われた。研修会に参加した教員によって4つの大学の取組みが報告された。その結論として、以下の2つが挙げられていた。

  • 学習成果の可視化は……一目で可視化できる資料を発行する方向性である
  • 学習成果可視化は、卒論・卒業研究を最終的な目標とするためにカリキュラムの変更を伴うが、同時に実際的な学習スキルを補完するために、ラーニングコモンズ・学習支援をてこ入れする必要性がある

 1つ目の資料の整備は事務的な問題として、2つ目は今後の本学が目指すべき姿であろう。少なくとも本学は幼稚園教諭・保育士・看護師・介護福祉士臨床心理士などを養成する学部・学科を持つ大学・短大である。上記の理由から、その学部・学科はもちろんのこと、一般的な資格取得を目指す学科であっても、「探究」をベースにした教育を行うことによって学生の学修を高めることが必要だ。
 そうであるならば、「探究」をベースにした教育に転換するために、カリキュラムの見直しが必要である。また、それを支援する体制も整えるべきである。この2つの方向性を本学のとるべきあり方として、小さい声ながら提言したい。

全国大学国語教育学会茨城大会で発表してきた

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茨城大学の図書館外観
 6月1日(土)・2日(日)と第136回全国大学国語教育学会茨城大会が茨城大学を会場に行われた。私は2日(日)の午後に自由研究発表があったので、参加し発表してきた。

 午前中は課題研究発表が行われた。「国語科教育を問い直す③:教師・教育行政・研究者それぞれの立場から」と題して、特に「書くこと」の教育を巡って話題が提供され、議論された。学会では一昨年あたりに大規模な実態調査を行っている。その結果を踏まえ、3人がそれぞれの立場からの提言をした。教師の立場から話されたのは澤田英輔先生である。澤田先生と言えば、『イン・ザ・ミドル』の翻訳者の一人として、またライティング・ワークショップ、リーディング・ワークショップの実践者として今や有名になった。さらに今年度は、今まで勤めていた筑波大学附属駒場中学校・高等学校を退職し、軽井沢風越学園設立準備財団に異動して、風越学園という魅力的で注目すべき学校の設立に奮闘している。澤田先生の提言はご自身の「あすこま!」ブログ等で発信している内容をなぞったものだったが、ブログの愛読者である私にとっても、改めてその内容をおさらいできる良い機会だった。
 教育行政の立場からは大滝一登氏、研究者の立場からは冨安慎吾氏が提言していた。無知をさらけ出すのだが、文科省の大滝氏の提言はまさに教育行政の立場からのもので、この方面についての私の理解の朝さを露呈するものとなった。島根大学の冨安氏の提言は「書くこと」の指導についての理論的な提言の面があり、なかなか興味深かった。
 この課題研究発表では新潟大学の足立幸子先生と一緒に聞いていた。足立先生とは発表の前に様々に情報交換ができ、これまた嬉しいことだった。また、澤田先生(澤田さんと呼ぶのが普段通りなのだが)とは前夜に夕食を一緒にすることができ、これも嬉しい時だった。
 それにしても、発表が終わった後、澤田さんのところにたくさんの研究者が名刺交換に来ていたのは印象的だったなぁ。澤田さんの活動が研究者にも認知されているのは、とても嬉しい限りである。

 午後は自由研究発表である。私は「読み聞かせ方法の違いが学生の読み聞かせ観に与える影響」と題して発表した。通常の読み聞かせ、考え聞かせ、対話読み聞かせを練習し実習した学生間で、読み聞かせに対する考え方が変化するかどうかを実験した研究である。
こうした学会発表の醍醐味は、発表が終わった後の質疑応答である。10分間という短い時間だったが、4人の方から質問を受け、その内容は大いに参考になった。ある方からは考え聞かせが他の方法とそもそも異質なものであることを指摘された。ある方からは読み聞かせを聞く子どもの脳の状況が穏やかになるが、考え聞かせによって読み手がどんな考えを言うのかを思うとその脳の状態が乱されるのではないかと言う指摘を受けた。ある方は2つの方法が科学絵本でも使えるかどうかを質問された。最後には私の研究計画において、学生同士の相互評価が今回の実験結果に影響した可能性を指摘された。それぞれにとても刺激的で、参考になるものだった。
 最近、柔軟な頭の働きができなくなってきていることを自覚するのだが、学会発表はその意味で自分の脳の柔軟さに挑戦するような負荷のかかることである。しかし、この質疑応答の面白さはやめられない。優秀な方々からの様々な意見をもらうことで、自分の頭がリフレッシュされる。今回も非常に楽しい経験となった。

CBLという学び方

Appleのデジタル教育

Appleのデジタル教育

 今読んでいるのがこの本。もう、すこぶる面白い! ただし、日本語版のタイトルはあまりにナンセンスである。原題は「Rewiring Education(教育のつなぎ直し)」。副題は「How Technology Can Unlock Every Student's Potential(どのようにしてテクノロジーはすべての生徒の潜在能力を解放できるか)」。絶対こちらの方が本の内容を明確に表している。確かに著者はAppleの教育部門初代バイスプレジデントであったジョン・カウチであり、本にはApple社が教育にどのように関わっているかが書かれている。しかし、それは本題ではない。もっとこれは教育の一般的な話題に関わるものだ。このタイトルだけで判断すると、工学系の本かと思われる心配がある。タイトルはもう少し考えてつけるべきだなぁ。まあ、私がこの本を手に取った理由はタイトルに「Apple」と「教育」とあったからなのだけれど……。

 この本の中でCBLという学び方が紹介されている。Challenge-Based Learning(チャレンジ設定型学習)の略である。世にはPBL(Project-Based Learning:プロジェクト設定型学習)があるが、このCBLはさらに一歩進んだ学び方だ。  

  • CBLは疑問を発端とする学習モデルだ。個人またはグループで疑問の解明や解消に自らチャレンジすることで、その学習が生徒自身に関係するものとなり、熱心に取り組むようになる。(p158)
  • チャレンジを通じて単なるコンテンツの消費者から脱し、文字、音声、動画など複数の媒体を使ってプロジェクトを完成させたジョディのクラスの生徒のように、CBLの目的は、コンテンツを生みだしたり育てたりできるようになってもらうことにある。(p160)

 まだ今ひとつ全貌が掴みきれていないが、昨年公開されたAppleの「Everyone Can Create」プログラムもこのCBLの考えに沿った教育プログラムであるのだろう。なかなか興味深い。

 確かに、単に問題を解決したり、プロジェクトを達成したりするだけでなく、疑問の解消に自らチャレンジすることで、自分自身の学習に意味をより見いだすことができるだろう。そして、それを表すコンテンツを生み出すことが、また学習を促進するだろう。面白そうな学び方だと思う。

 CBLは、ネットでググると様々な情報を得ることができる。今後、学んでいきたいものだ。
https://cbl.digitalpromise.org

読み聞かせ実習のアンケート調査の分析が終わった

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先週の木曜日に、読み聞かせ実習の2回目が終わった。そして、アンケートの事後調査を行なった。そのアンケート結果を集計し、統計的分析をした。それが昨日、なんとか終わった。今回、用いたのは2要因混合計画による分散分析である。Macでも処理できるのと、慣れ親しんだツールだということで、js-STARを久しぶりに用いた。いやぁ、js-STARの入力方法が少し変わっていて焦ったこと。js-STARは細かいヴァージョンアップが繰り返されている。おかげで精度に信頼は置けるし、有用なツールなのだけれど、久しぶりに使った身としては慣れたアピアランスではなかったもので、少し焦った。でも、すぐに慣れることができた。

通常の読み聞かせと考え聞かせと対話読み聞かせを3つのクラスに振り分けて実習させ、その前後に同じ内容のアンケート調査を行う。その結果を分散分析で分析するわけだ。苦労してデータ形式を整え、1項目ずつjs-STARに入力する。Excelで下処理したデータをコピペで貼り付けて行くことができるけれど、26項目もある調査の1つ1つについては、1つずつ入力していかなければならない。まあ、データを貼り付け、分析ボタンを押すとすぐに結果が出てくるので、その意味では楽しくも苦しい作業である。およそ2時間くらいかな。分析作業は終わった。

しかし、1項目ずつ分析が進み、次第に思うわけだ。おいおい、これはこちらの予期していた結果にはならないぞ、と。今回は3つの手法の違いを分析しようとしているわけだ。実は、これにはかつて苦い経験がある。同様に3つの学習手法の違いを分析しようと実験計画を練り、3つの異なる方法で授業を行い、いざ分析だと意気込んでみたが、結果はこちらの思惑を反映するものではなかったことがある。その時の嫌な予感が頭をかすめる。これは今回も似たようなことになりそうだ、と危ぶみ始めた。というのは、統制群として設けていた「通常の読み聞かせ」の方に統計的意味のある変化が出てきたのだ……。

分析が全て終わり、危惧は現実のものとなった。統制群であるはずの方に有意の結果が出てしまった。正直、がっくり、である。しかも悪いことに、今回の実験結果は6月2日の全国大学国語教育学会茨城大会で発表する内容なのである。いやぁ、やはり学会発表というのは現在進行形の研究を発表しちゃいかんなぁ、しっかり分析まで終わったものを発表すべきだなぁ、と焦っていたのだ。

しかし、分析結果を時間をおいて考え直したところ、意外にこれは私の主張を裏付けるものになっているのではないか、と思い始めた。そう考えられると、現金なもので、俄然やる気が出てくる。今日は、この分析結果を元に学会発表資料となる表作りをせっせとしていた。人間、考え方次第でどうとでもなるものである。

この分析結果から4つの考察を導くことができる。順に書くと……
  3つの読み聞かせ手法は、基本的にはどれも学生の読み聞かせ観を向上させるのに役立つ。
  通常の読み聞かせも、読み聞かせ観の変化に寄与する。
  対話読み聞かせによって、1つの方法についての意識を変えることができる。
  考え聞かせは、今回の実験でも学生が身につけにくいものだと感じている。
ここから導出されるのは、考え聞かせの指導法について、より学生にわかりやすい方法を開発していく必要がある、ということだ。これらの考察は私の従来からの主張を裏付けるものとなっている。いやぁ、案外いい方向に行っているのではないのかな。

研究発表も、なんとか乗り切れそうだ。頑張れ! 私。

哲学対話の記事について

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日本経済新聞のWeb記事より

 日本経済新聞のWeb版に「キセキの高校」と題した記事が掲載されている。今日で3回目であるようだ。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44480670X00C19A5000000/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44496650X00C19A5000000/
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44531730Y9A500C1000000/?n_cid=NMAIL007

 この記事は東京都立大山高等学校での様子を報告している。この学校では哲学対話を取り入れている。哲学対話とは、参加者が車座になって座り、参加者によって対話するテーマを話し合って決め、そのことについて各自が自分の考えを話す活動である。話し合うときには毛糸のボールが用いられ、そのボールを持っている者だけが話すことができる。自分の意見を話し終えたら、次の人にそのボールを渡す。また大山高校では上記にあるルールに添って進められ、基本的に発言の自由と場が確保される。そして、ファシリテーターが中心となって、発言したことへの質問が投げかけられるのだ。「どうして?」「なぜ?」と。「そもそも〜はどういうことなのだろう?」「そもそも〜は何故なのだろう?」と、事のそもそも論が語られるのだ。

 しかし、記事によると、こうした哲学対話を繰り返すことで、以前は底辺校だったこの高校の生徒たちの、もともと持っていた対話力が開花されていき、熱心に自分の意見を語る姿が見られるようになる、という。そのことは、生徒たちの落ち着きを生み、生活態度が向上し、近年は進路状況にも大きな進展が見られるという。タイトルに「キセキの高校」とされる所以である。

 私は、この記事を読んで、以前より聞いていた「哲学対話」がどのようなものなのかを知ることができてよかった、と思う。これを実現するには、ファシリテーターを十分に訓練しなければならないかなとも思うが、記事における大山高校の実例を見る限りではそれほど大掛かりでもなさそうだ。なんとなく、生徒を信頼し、生徒に任せていれば、勝手に生徒は力を開花させるような気がする。そしてそれは、今日の教育現場が忘れ去っていることでもあろう。

 同時に、これを「キセキ」と読んでほしくないな、と思う。記事は、卒業生が上智大学の難関学部に入ったとか、進学実績の向上を大きなトピックとしてあげている。あるいは、記者もそうした方が人々の耳目を集めるために、あえてそのようにしているのかもしれない。しかし、第3回目の記事に出てくる、提唱者の東京大学の梶谷真司の基本的な考え方からは、そうした態度は明らかに違っているだろう。この記事の内容が「キセキ」などではなく、どこにでもあるものであってほしい。せめて、新潟県に1つか2つは、こうした実践を積み重ねている学校が出てきてほしいものだと思う。

「哲学対話」か……、私も授業に取り入れてみようかなぁ。